加賀新田会所跡(加賀屋緑地)

当地は江戸中期まで砂の堆積する大和川河口部で、海岸線は約1㎞東にあった。加賀屋甚兵衛が砂地を干拓、1754年(宝暦4年)代官による検地後、加賀屋新田と名付けられた。宝暦4年頃築造の旧書院、1815年以前築造と伝わる鳳鳴亭、そして庭園が大阪大空襲の焼失と破壊を免れた。年貢徴収などを行った建屋、米蔵、道具蔵は残っていないが、旧書院で代官・手付へ報告を行っていたこと、鳳鳴亭で豪商の会合が行われたことを偲ぶことができる。旧書院は東の(奈良)石上神社を遥拝している。鳳鳴亭は西の(対馬)海神神社を遥拝している。旧書院、鳳鳴亭は概ね南の(堺市)開口神社を遥拝している。 (元伊勢)籠神社と(高野山)金剛峯寺を結ぶ神佛の通り道は当会所-仁徳天皇陵-周辺の古墳を通過する。(淡路島)伊弉諾神宮と(奈良)興福寺五重塔を結ぶ神佛の通り道は(当)鳳鳴亭-(大阪)心合寺古墳を通過する。出雲大社本殿と天香山の北側を結ぶ神の通り道は当会所全体-仲哀天皇陵-応神天皇陵-藤原宮跡を通過する。複数の神佛の通り道が当会所で交叉しているので、神佛が立ち寄り遊んでいる、神佛に守られた池庭と言えるのではないだろうか。周囲が水田だった頃、周囲の水路と庭池の水位は同じで、池から水路に漕ぎ出すことができた。現在の池標高は0.4m、建屋部標高は1.7~1.8m、会所跡周囲は標高1m前後なので、会所跡は周囲の水田より少し高く、水田を見渡すことができた。旧書院、鳳鳴亭から庭先に大阪湾、淡路島、明石海峡、須磨浦、高尾山、摩耶山、六甲山が見えたはずで、築山上の二階建て明霞亭から代官、手付らが水田を観察していたことが想像できる。水路を進む舟が良く見えたはずで、来客者を遠くに迎え、遠くまで見送っていたことだろう。借景に合わせて作ったはずの庭は太陽を背にした朝と夕日が美しかったことだろう。雄大な借景庭園だったが、今は借景を失い、深く掘り込んだ池庭となっている。武家に遠慮し庭石は少し暗い色だが、鳳鳴亭の基礎石は武家が使う明るい黄色系の石で、池の傍から見た鳳鳴亭は豪華だ。瀧から豊富な水が庭池に注がれている。創建当初から水車を使い豊富な水を瀧から池に流していたことだろう。大阪人の庭らしく、多数の石灯籠は、それぞれ個性が有り、どこか滑稽である。樹木の剪定がどこか面白い。待屋が「偶然亭」ひょうきんな名前だ。あちこちに笑いをさそう工夫がされている。水の流れを強調しているので旧中筋家住宅と同じく「6天水訟(てんすいしょう)天水違行」を表現し、庄屋の心構えを庭に画いたと思った。