中之島公園に二人の大柄な少女が手を挙げて立つ「緑の賛歌」像がある。二つの像はそれぞれ細高い台座に据えられている。一人は万歳もしくは降参しているかのよう、別の一人は上げた両手を交差させ、これから起きるであろうことを受け入れるような、炎のような仕草をしている。下から見上げると像が空中にあるので、天上の少女のようにも見えるが、天女の衣をまとっていないので天女ではなく、羽がないので妖精でもない。鈴、扇子、ササなど神の依り代となるものを持っていないので巫女でもない。裸になった普通の少女が、行き止まりの台座に登らされ、天空下に晒され立っている。多くの人目に晒された二人の少女には何が待ち受けているのだろうか。晒された少女の心は潰されるのだろう。天空を背景に、裸少女を台座に立たせ、成長の早いクスノキ、ケヤキ、ヒノキなどの緑で包むことで、少女が自由になったことを謳歌する「緑の賛歌」像と見せているが、上述したように二人の裸少女は広場中央に設けられた高い台座に登らされ、逃げ場を失い、晒されている。台座を取り囲む大勢の人目に晒された生贄だ。少数民族は牛、猪、羊を生贄にし、集まった人々に富の分配を行い、民を潤し、民族組織を強化する儀式を行って来たが、この芸術品の生贄は裸少女だ。現代社会の組織において陰湿なパワハラ、セクハラが組織の生贄儀式になっている面がある。生贄儀式にて多くの人、物、金を集め、大繁盛していることを誇示し、儀式の長はその地位の安定化を図る。最近、問題視されているお笑い芸人による若年女性へのセクハラ行為はお笑い芸人組織における生贄儀式そのものだ。短期的に見れば誰かを犠牲にすれば利が得られ、組織長は地位の安定化が図れる。しかし長期的に見れば下品なお笑いがはびこり、組織が腐って行く。この「緑の賛歌」像の台座を囲むように屋台を並べ、多くの人を集め、歓談させ飲食を行わせることが、この芸術品にはふさわしい。言わば現代における生贄儀式の会場だ。しかしながら現代社会は各組織に対し、弱者へのパワハラ、セクハラ撲滅を求めている。よってこの像の下で女子供を遊ばせ、飲食させるのは現代の風潮に合わない。古来より日本人は穢れを嫌い、組織が腐るのを避けるため生贄儀式を排除して来たので、この芸術品は日本になじまないと思った。