織田信長の躍進(17)
本堂は約32km先の(信長軍が無血開城させた観音寺城跡)観音正寺本殿を遥拝している。本堂から観音正寺本殿方向を見て約2度右には安土城天守、織田信長公本廟がある。観音正寺と安土城天守の間には桑実寺本堂、(箕作山ふもと信長の活躍を画いた)松尾神社庭園がある。本堂から観音正寺本殿方向を見て約1度左には(秀吉が一日で落城させた)箕作城跡がある。門から本堂までの参道は(伊庭の坂下し祭の)繖峰三神社を遥拝している。その遥拝線を更に鈴鹿市まで伸ばすと線両側には(神戸氏の旧居城)澤城跡、(信長の3男、信孝が神戸氏の養子となってから強固に修築された)神戸城がある。本堂と参道により本尊が信長の業績を見守る向きとなっている。更に本堂は西南方向約138km先の(淡路島)いざなぎ神宮も遥拝している。本堂と(豊臣秀吉が織田信長の霊地とした京都)船岡山頂上から約20m西側地点を結んだ線は(京都)上賀茂神社幣殿-(大徳寺総見院)織田信長供養塔を通過する。本堂と本能寺跡石碑約20m西側地点を結んだ線は(阿弥陀寺)織田信長公本廟石碑-京都御所を通過する。本堂と本能寺跡石碑の約40m東側地点を結んだ線は(阿弥陀寺)織田信長公・忠信公墓所(織田信長公本廟)-(京都御所)小御所中心-紫宸殿を通過する。本堂と(和歌山)高野山織田信長墓を結んだ線は比叡山頂上付近を通過する。本堂は信長・信忠を偲ぶ線の起点となっている。江戸城本丸御殿松の大廊下跡の約30m東北地点と(対馬)海神神社本殿中心を結ぶと、(信長、信忠が城主だった)岐阜城天守中心-旧秀隣寺庭園(以下庭)を通過した。若狭彦神社本殿と沙沙貴神社本殿を結ぶ神の通り道は本堂西南を通過する。若狭姫神社本殿と皇大神宮別宮倭姫宮を結ぶ神の通り道は庭のすぐ西側を通過する。このように当寺は神の通り道の下にあり、庭は神が遊ぶところになっている。徳川幕府は当寺に信長・信忠を偲ぶ目的を持たせたと読んだ。当地が「岩神館」当時、朽木3代は歴史の重要人物を受け入れた。1528年(亨禄元年) 朽木稙綱は(室町幕府12代将軍)足利義晴、細川高国ら幕僚を受け入れた。1549年(天文18年) 朽木晴綱は足利義晴、足利義輝、細川晴元を受け入れた。1570年(元亀元年) 朽木元綱は金ヶ崎の戦いで敗走する織田信長を助けた。本堂内に秋篠宮殿下、細川護煕元内閣総理大臣、朽木氏子孫が来訪した際の写真が掛けてあったので、当地に深い歴史があることを実感した。庭は信長・信忠一行の逃避行を表現し、本堂は信長・信忠を偲ぶ起点であり、本尊は両名の偉業を見守っている。歴史は闇の部分が多いが、建屋の遥拝先、神の通り道、庭石が歴史の闇の一部を解説してくれている。松尾神社庭園の中心石は安土城築城当時の天下統一事業を進めていた信長の姿だった。醍醐寺三宝院庭園の庭中心石は東アジアの中心となった清朝初代皇帝ヌルハチの姿だった。この二つの中心石の形が似ている。信長は天下統一をなしたが大半の部下が戦死した。柴田勝家・お市の方は信長に殉死したような最後だった。参道に「故海軍水兵長 朽木元(?)之墓」がある。ソロモン群島海戦において戦死22歳と刻まれていた。近代に戦死した朽木氏子孫の軍人墓標が歴史の闇を感じさせる。(ヌルハチの陵墓)福陵の参道に沿って線を伸ばすと(沖縄)首里城に至るので、参道を進むことは首里城から歩いて来たことに通じる。清朝役人は定期的に首里城を訪問したが、清朝役人が首里城を訪ねることはヌルハチの陵墓を出発点とした意味を込めたと思った。ヌルハチが信忠であった証拠の一つだと思う。