西日が差し込んでくる方角の西側の山を借景とし、逆光の西日を室内に取り込まなければ鑑賞できない庭は少ない。中奥から逆光方角の山を眺める庭を作ったのは、藤堂宗家に気兼ねし、宗家の居城、津城を背にして庭鑑賞するよう作ったからではないだろうか。津藩(32.3万石)支城、上野城に対しても建屋内から借景の先に上野城方角を望むことはできない。平らな面を見せる庭中心石を低い築山上に立て、築山に石組している。中心石の右側に立つ石灯籠の火袋は津城に向いているように見える。庭石は上面が平らな神の着座石が大半で、飛び石も上面が平らなので、神の通り道の下にある庭であることが強調されている。借景山を高く見せるため、雨水の排水を兼ねた深く掘り込んだ枯池があり、中心石から枯池まで枯山水川がある。現存建屋は東北方向の御嶽山山頂上付近にある御嶽神社頂上奥社と、西南方向の(奈良)竜門岳山頂を遥拝している。中心石は御嶽山が発する聖気を反射させる目的で平らな面を見せているのだろうか。御嶽神社頂上奥社には大国主命、恵比寿が祀られ、竜門岳山頂にはタカミムスビ神の祠が立てられている。御嶽神社頂上奥社と竜門岳山頂を結んだA線は現存建屋から約10m離れた入口門を通過した。大国主命が権現した御嶽山は巨大なので、現存建屋と庭は大国主命とタカムスビ神の通り道の下にあり、中奥は両聖地に向いている。現有建屋は東南方向には(三重)皇大神宮別宮瀧原宮を、西北方向には(京都)淀城を遥拝している。皇大神宮別宮瀧原宮中心と淀城天守台中心を結んだB線は建屋「中奥」を通過した。茶室「清閑楼」は両聖地に向いている。このことからA線とB線が直角交叉する地点に建屋を設けたことが読める。長杉寺、円満院と同じように建屋の遥拝先と神の通り道を一致させている。名張藤堂家初代、藤堂高吉(1579年~1670年)は1588年(天正16年)、藤堂高虎(1556年~1630年)に養子としてもらい受けられ、後継者と目されたが、藤堂高虎に実子、高次(1602年~1676年)が生まれたため、高虎の家臣として仕え、次いで高次に仕えた。高吉は高次から危険視され藤堂宗家から疎んじられた。宗家と名張藤堂家の対立は長く続いた。この庭は借景の天、山、天空の色を反射する真っ白な築地塀、そして地面を強調しているので、易経に当てはめると白い築地塀が輝く晴天時には「57巽為風(そんいふう)風の如く従う」となる。風の如く宗家に従う名張藤堂家の姿を見せる。雨天日は「53風山漸(ふうざんぜん)徐々に進む」になるので、宗家の管理下にある名張藤堂家だが、このまま終わるのではなく、徐々に発展し続けている姿を見せる。(津藩士1.5万石)名張藤堂家が表現されている。