1579年(天正7年9月)織田信雄は父親(信長)に相談なく伊賀将兵の2~3倍、9.5千の軍勢で第一次天正伊賀の乱を発動、3カ所から伊賀に攻め込んだ。しかし、忍者戦法にかく乱され、わずか2~3日で壊滅させられ、撤退した。織田信長は必ず倍返しをする。石山本願寺との10年戦争に勝利した翌年1581年(天正9年9月)織田信雄を総大将に第二次天正伊賀の乱を発動、約5万の軍勢にて6カ所から伊賀に侵攻した。信雄本軍は北畠氏館跡付近を通過する道を使って攻め込んだので、霧山城下は補給拠点として機能していたことが読み取れる。伊賀住人9万の内3万を虐殺し、最後に北畠氏館跡から直線約21.5km、伊勢からそれほど遠くない地点の柏原城に立て籠もった1600人と戦った。織田信雄軍3万数千人に対し城内の1600人は兵糧が尽きるまでの(数日~1週間ほどの)期間、城を守り切ったので、伊賀忍者が強者だったことを知ることができる。雨天翌日に見学したせいもあるが、坂道が非常に滑りやすかった。粘土質の土を固め滑りやすくしたのではないかと思った。現在、城として見ることができるのは主郭と井戸のある居館郭だけで、この両郭(本丸)だけではとても1600人を収容できない。当時の城は勝手神社、主郭東の道路を隔てた東の山を含めた450m四方程度の広さがあったのだろう。高い山を南に控えた低いこの山城で20倍以上の大軍をかく乱させ、攻め込ませなかったことは凄いと思った。伊賀忍者が最後の城と定め、自らの土地と家族を守るために戦ったなまなましい戦闘地がそのままの姿で引き継がれていた。織田軍勝利の城としてではなく、伊賀忍者の心意気を表現する城跡であることは、武田武士団の心意気を表現する法華寺(諏訪)庭園と共通している。