相楽園

商売人の理想の庭

もとは小寺家邸宅庭園で「蘇鉄園」と呼ばれていた。庭の名「相楽園」の由来は、1941年(昭和16年)神戸市に譲渡された際に、易経中の「和悦相楽」から字を取り「相楽園(そうらくえん)」と名付けられたことにある。そこで易経からこの庭を探ることにした。「和悦相楽」の言葉を紐解くと上下の卦が兌となる「第58 兌為澤」となる。兌が示す場所は澤、谷、湖沼、海なので、土橋で区切られた大小二つの池を上下に海と湖と見立て易経の「第58 兌為澤」(和悦相楽)を当て、相楽園と名付けたことが判読できる。「第58 兌為澤」の象は相互に悦び合うこと。意は朋友が共に勉学にいそしみ、相互に益し合うように努力すること。庭は比較的単純構造の庭であるので空と池を楽しむ庭でもある。「第58 兌為澤」の上下に並べた6本の爻(こう)の内、一番上の爻(こう)を陰(- -)から陽(─)に変え、上卦を晴天の天(乾)に変化させ、下卦を兌(澤;水がある底がしっかりとした所)のままとすると「第10 天澤履」になる。その象は、天は高くして上に有り、澤は低くして下にある。意は虎の尾を履む(踏む)危ない目にあっても柔らかい態度、礼を失しない態度で難関を突破できる。庭に二つの池だけを見たとき「第58 兌為澤」となり、皆で悦び合いながらも言葉が滑らないよう節操を守るべきことを教えてくれる。頭を上げ、庭に空と池とを見たとき「第10 天澤履」となり、どんな難局も謙譲の心で乗り越えられることを教えてくれる。事業家の小寺泰次郎が商売人の理想の庭を求め続け、商売人の心得を庭に刷り込んだことが窺える。次に、建屋の遥拝先から庭を探ってみた。旧小寺家厩舎以外の小寺家本邸など旧小寺家厩舎以外の建造物は、1945年(昭和20年)神戸大空襲によって焼失した。空襲で焼失しなかった旧小寺家厩舎の向き先を調べると、東南方向に熊野本宮大社大斎原を、東北方向に多賀大社を遥拝する向きとなっていた。小寺家本邸など建屋も同じ方向に建っていたはずで、邸宅全体で熊野本宮大社大斎原と多賀大社を遥拝していたことが推測できる。戦後移築された旧ハッサム住宅、鉄筋コンクリート造りの相楽園会館、移設された船屋形も略、旧小寺家厩舎と同じ方向に向いて建っているので、現在も遥拝庭であり続けている。「そろばん侍」として頭角を表し、明治維新後に神戸での事業に大成功を収めた小寺泰次郎が1885年(明治18年)頃から1911年(明治44年)までの歳月をかけて庭を作った。武家の伝統を基に邸宅庭園にきっちりと遥拝先を持たせ、更に実業家(商売人)の心得を庭に刷り込んだたことが判る。小寺泰次郎の生き方そのものが庭に表現されていると言えるはずだ。相楽園の庭石の色もどちらかと言えば控えめだ。大名庭園、武家庭園で見られるゴージャスな黄色っぽい石はあまり使われていない。しかし大名庭園のように金をつぎ込んで作ったことは十分に見て取れる。正門から庭までの広くて長い道の右側にはソテツ園があり、庭には大きな石灯籠をあちこちに配され、手入れに金がかかるマツをふんだんに植え、珍しい白マツを植え、池に錦鯉を泳がせている。3箇所の瀧から水を流し川から大きな池に水を注いでいる。土橋も枯山水もある。来客者を悦ばせるために大きな石を組んで作ったトンネルも有る。現在は周辺に高層ビルが建ち景観を損ねているが、ビルが建つまでは空が広く、今以上に緑がまぶしかったはずだ。一見、高価な大きな石灯籠を大量に立てた成金趣味に見えるが、源氏の聖地、熊野本宮大社と多賀大社とを遥拝する庭なので、日本人のアイデンティティである源氏の聖地崇拝をベースに、商売人の豊かさ、心得を刷り込んだ庭と読み解ける。皆で悦び合いながら上品な食事、抹茶をいただき、節度ある会話を楽しむ庭だ。