小さな島の500年前の庭
淡路島すぐ南の小さな島だが、和歌山城主天守、雑賀崎灯台から望むと幕末まで西日本統治に不可欠な海上交通の要所だったこと、御三家の一つが沼島を眼下におさめる虎伏山に天守郭を設けた理由が見て取れる。沼島はイザナギ、イザナミが真っ先に降り立った島(オノコロ島)と伝わる。読み替えると日本統一のため真っ先に占領した島と読み取れる。沼島以外にオノコロ島の所在地として名を上げている淡路島北端の絵島、淡路島南の大きな鳥居がある自凝島神社(おのころじまじんじゃ)はそれぞれ日本統一のため転々とした作戦司令本部所在地ではないのか。戦線の拡張により沼島の次に情報伝達に有利な淡路島北端、防衛と生活に有利な自凝島神社の丘へと司令本部を移動させたように読める。ここは畿内と西日本を結ぶ海上交通の要所、織田信長、豊臣秀吉も沼島を重視した。室町幕府第10代将軍、足利義稙(1466年~1523年)も沼島水軍の根拠地である沼島を重視、1521年10月、細川高国との抗争を断念し、堺を離れ沼島に潜んだ。沼島庭園は、足利義植が在所時に作庭したと伝わる。銀閣寺で見たお茶の井に有る東山の崖を利用し、同系列色の多数の石を挿し込んだ崖庭と相通じるものがある。この庭も、もとからある岩の崖を利用し、その周囲の土肌の崖面に同系列色のごつごつとした長細い多数の石を挿し込むように配し、崖面全面を岩面にし、湧き出す地中エネルギーと対話できる形としている。崖面の先にある聖地と対話し、祈る庭だと思うが、作庭当初の建屋がどこに向いて建っていたか判らないので遥拝先が判らない。方向的に徳島城、或いは高千穂神社を遥拝する庭ではないかと思った。亀島、鶴島も石を組み上げて作っている。多数の石を使うことで思考を促進させる庭としたと思う。石橋は何かを通じさせようとする目標表現なのだろう。戦国時代を背負っているせいか血の匂いも感じる。現在、忘れられた庭のような状態にあるが、500年前の歴史情景を浮かび上がらせる迫力がある。海に囲まれた小さな島にある戦国時代の歴史を秘めた庭だ。