松尾大社 松風苑

本殿・拝殿は多賀大社に祭られるイザナミ、イザナギを、楼門を通し迎え入れる如く多賀大社本殿に向いている。多賀大社本殿と当社本殿を結ぶ遥拝線は(大津市坂本)最乗院-(京都御苑)近衛邸跡-当社楼門・拝殿を通過する。尚、当社楼門は本殿・拝殿の向きとは違い、約4度時計方向に向き、(安土)観音正寺本堂-沙沙貴神社鎮守の森-京都御所紫宸殿南庭を遥拝している。赤鳥居から東方向への直線参道を東に伸ばすと清水寺成就院月の庭を通過-天智天皇山科陵参道を跨ぎ大国主命を祭る(静岡県)奥磐戸神社(小國神社奥宮)に到達した。次に重森三玲の絶作「上古の庭」「曲水の庭」「即興の庭」を擁する神像館・社務所の向きをグーグル地図で調べると(京都御所)紫宸殿を遥拝していた。重森三玲は遥拝線、神の通り道を掌握し、明治・昭和の戦争情景を庭に刷り込ませた作家なので、遥拝先を加味し庭を読み解いてみた。「上古の庭」当社HPに「遠く昔、上古の時代には、どの場所にも神社も社殿もなく、山中の巨岩などが神霊のやどる聖地とされており、その場所を磐座(いわくら)、或いは磐境(いわさか)と言います。当松尾大社でも今から千三百年前の昔、大宝元年(701年)に現在地に御本殿が建てられる以前は、神社後方の松尾山頂上近くにある磐座で祭祀が営まれていました。この古代祭祀の場である磐座を模して造られたのが本庭です。庭の奥、中央の巨岩二つは、当神社ご祭神の男女二柱を、地面に植えられたミヤコザサは人の立ち入れない高山の趣きを、そしてこれを取り巻く多数の石は、随従する諸神の姿をそれぞれ巨岩によって表徴しております。」と説明されている。説明通り神が降臨する剣形の石、ズングリとした神の権現石で構成されている。神像館・社務所が(京都御所)紫宸殿を遥拝しているので、明治天皇、昭和天皇の行いを庭に刷り込ませたと読んだ。庭中心石となっている庭中央の石が昭和天皇、向かって左隣の緑の巨石が香淳皇后、両者を守るように取りまく多数の石が首相、海軍大臣、陸軍大臣、陸海軍の将軍達と政治家、中央の二つの石の背後に仰け反って立つ細長い石が明治天皇、明治天皇の意思を引き継いだ昭和の異常な時代を生々しく表現した庭だと思った。「曲水の庭」無数の平らな玉石をコンクリートで固めた築山があり、築山を抜けるように川が蛇行している。まるで築山は蛇体のようだ。多くのカエデが植えられ、紅葉に赤く染まった葉が曲水に流れ血の川となることが想像できる。曲がれくねった川を血が流れているようにすることで、曲がりくねったチンドウイン川を渡河し激戦を行ったこと、玉石で固めた築山を髑髏が累積した白骨街道に見せることで日本陸軍の退却路に見せ、インパール作戦の無残さを表現したと思った。立石は薄く墓標を表現している。「蓬莱の庭(客殿南庭)」重森三玲と長男、重森完途の共同作品。瀧口から流れ落ちた水がコンクリートで固めた池に流入している。コンクリートで固めた庭は自然界の風景ではなく、霊界風景で、三途の川を表現したように見える。コンクリートで固めた細長い島々は概ねソロモン諸島を指し示しているので、ソロモン沖海戦及びガダルカナル島の戦いを抽象的に表現したのだと推測した。最初から大負けすると判っていたのに作戦決行したインパール作戦、日本陸軍の戦闘目的だったインド独立が実現しているので、作戦は成功したと言えるにもかかわらず、これまでの評価は最悪だ。対しソロモン沖海戦及びガダルカナルの戦いは日本海軍に完全勝利できる力があったのにかかわらず故意の艦船・航空機逐次投入で、大きな損失を出し敗戦への道のりを付けた。負けるはずがない戦いを故意に負け続け、多くの兵を犠牲にしたにもかかわらず何の悪評価も受けなかった日本海軍を批判する庭ではないかと思う。三庭園は昭和の大戦の鎮魂庭だ。