桂宮邸跡庭園

北の相国寺開山堂から流れて来た小川の水は今出川御門を抜け近衛邸の外壁に沿い南下、京都御所四周へと流れていたが、その水を管にて引き入れていたのか、或いは桂宮邸内の泉水を使っていたのか幽玄な築山の奥に水源が有り、湧き出した水が細長い水路を通り細長い谷のような池へ流入し、いくつかの細長い谷池を通過し、最後に広い池に至るようになっている。京都御所内の紫宸殿を含むすべての建屋、南北方向に伸びる長い道路と同じく桂宮邸御殿跡のラインも熊野本宮大社大斎原を仰いでいる。測量するすべを持たないので断定できないが泉水を通す細長い水路が指し示しているのは熊野本宮大社大斎原のように見える。スサノオ神たちが宿る聖地の水が庭の築山に湧き出しているように感じさせようとしているはずだ。更に貴船神社本宮拝殿と熊野本宮大社大斎原中心を結ぶ神の通り道は桂宮邸御殿跡を通過するので、御殿内から南側の庭を見ることは背後に貴船神社が控え、神の通り道に沿って熊野本宮大社大斎原を遥拝しつつ、神々が降臨する庭を鑑賞することになる。御殿跡と庭は天皇制度の基礎を作った祖先神が行き交うところにある。仏教的な庭だ。水源は深遠な山中にあり、そこから真っすぐに伸びる水路を通り抜けた聖水が谷の形をした池へと注がれている。谷のように掘り込まれた池を流れる聖水は佛を模した多くの石が立ち並ぶ築山を抜け、三尊石が立つ築山を抜け、極楽を模した須弥山を取り囲む大きな池へと至る。この庭は孝明天皇が桂宮家を仮皇居とした際に作庭されたものなので、幕末の動乱を乗り越えるための知恵が書き込まれている。奥深いところにある深い水脈から湧き出す聖水。これまでどのような旅をして来たか判らない初心な聖水は、修行を積んだ多くの佛の傍を通って真実、真理を学び、三尊の傍を通り抜け慈悲、悟りを得て心穏やかになり極楽世界へと至るようになっている。天空を隠すほどの大木にて庭を包み、築山と浸食されてできた谷のような、深さを感じさせる谷池に沢水を流すことで、易経「41山沢損」損ずる道を表現している。佛を表現した多くの石、庭中心となっている三尊石、須弥山にて仏教徒が歩む道を画いているので、熱心な信徒が歩む「損ずる道」とはどのようなものなのか、庭が語っている。①仏教に強く惹かれる人の共通点は愛情に満たされ安泰な生活を送っていたが、身近にいた大切な人が欠け、或いは大切なものを損じ、心が損ずる道へと迷い込んでしまい、欠けたものを補うため佛を拝み、熱心に法話を聞き、念仏や経典をとなえ、或いは座禅を組み、瀧に打たれ、山道を歩いて真理を求めようとすること。それらの行にて真心を取り戻し、平穏な心を取り戻す。欠けた愛を取り戻す姿は思春期の少年少女のように感受性に富み、仏法に触れたことを純粋に喜び、平穏な心を取り戻し、知恵を取り戻し、普通の生活へと戻る。心が損すると苦難の世界へ落ちるが、仏が放つ慈悲の力を借りて欠けたものを埋め、平穏な心を取り戻す修行にて強い心が育成され、物怖じしない人へと成長する。心の厚みが増し、本来の自分の生き方が送れる。②山の地下に潜む水は闇の世界の中にある。慈悲が欠けた心は暗い闇の中にいるような状態で、そのような人は幼稚な行動をとる。その解決を仏教に求めた場合、暗闇から飛び出し、自らの力で優れた師を探し、自主的に教えを請い、心を無にして学ぶしか無い。山から湧き出した初心な水が直線の水路を通り抜けている。初心な心は規律ある教育によって真っすぐに進めることを教えている。③人の知恵は浅はかで、師について少し学び、正しい教えにて体が包み込まれたと実感すると、正しい行いができる人間に成長したと錯覚してしまい、自尊心が助長し、自らの実力を超えたことにまで首を突っ込み、山崩れにつながるような危ないところに迷い込んでしまう。危ないところに迷い込むことは破産間際など行き詰った人が状況打開のために取る迷走に似て、自らを虚飾にて大きく見せ難局を乗り越えようとする。人から行いが軽薄だと見透かされていることにも気づかず、浪費や贅沢が増え立ち行かなくなる。まだまだ初級クラスにて学んでいる段階だと自覚し、少し学んだことを他人に教えたいと心にせかされても、未だ足元を固めることに専念すべき時だと自らに言い聞かせ、指導を受け続けなければならない。④次に流水が通る山また山の風景は仏教修行の無言の行を表現している。自らが深い山の中にいるような、或いはお互い干渉し合わない山と山との関係のように、他人とかかわらない立場を作ることで、他人から干渉されることが無くなり、一切の雑音から逃げることができる。無言で過ごし、自分ができることだけを行うことで、身のほどを知り、自らがなすべきことを知ることができる。⑤築山の上を太陽や月が移動している。旅する太陽や月と地球が一体となることがないように旅人と旅先の人が真に親和することなど無い。無心無作の心で旅する雲水のように、どんなに努力しても、善行を積んでも、果報は期待しない心持ちで自らがなすべきことを成し続け、陰徳を積むべきことを勧めている。⑥築山に登れるように石橋が架かっている。石橋を渡り山に登れば天は遥か遠くに離れて行く。信仰を深め真理を求めれば求めるほどに真理は遠くに離れて行く。足元を見つめなおし、身近なものごとに真理を探すべきことを教えている。⑦築山上に仏を模した多くの石が立ち、三尊石があり、神の着座石や権現石がある。仏を感じ、神を感じ、神仏と交わるように心で神仏と対話する。そのためには虚心にならなければならない。⑧大木がそびえている。ぽっかりと空いた樹木の間から太陽光が差し込んでいる。身のほどを知り自分がやるべきことを行い続け、陰徳を積み重ね、足元を見直し、神仏と心の対話を続けていると、太陽光の下での草取りなどの作業中、突然、稲妻が走り、雷が響き渡ったように神仏の啓示を受けることができる。キリスト教徒であれば神の子だと感じる瞬間がやって来た。長い信仰にて熟成してきたことがらを基に、改革、革新の道に進むべき時がやって来た。これまで人知れず温めて来た物事についてベールを剥がし世間に問いかけをし、世間が受け入れてくれるもののであればゆっくりと行動を開始すべきである。⑨池の傍らに水面を照らすことを示す火袋の無い雪見灯籠が置かれている。大変化の時が訪れた。長期間の信仰中に熟成された改善希望は世の中において改善しなければならない事であることが多い。的確な改革、革新は一見すれば危険が伴うリスクの高い改革に見えるが、世間が受け入れてくれる改革ならば、協力者と共に一気に改革を進め問題を改善すべき、長年にわたり貯めて来た実力を一気に放出すべき時である。⑩協力者と力を合わせ改革、革新を成功させれば、協力者と共に悦び合うことができる。天命とも言えるべき自らが行うべきことを行った結果なので、人生最高の悦びとなる。改革、革新にて行政整理すると、革新的な技術にて産業構造を変えると不利益を被った多数の人が出るので、言葉は慎む必要がある。⑪自らが求めたことが実現し人から注目される人物となったので、改革者として革新結果を継続させるために節度ある行動を取り続けなければならなくなる。筋の通った行動にて礼節を持って人と接し、トラブルには調節を行い、色情問題が起きないようにルールを守り、態度や外観を整えなければならない。これまで仏教徒として実践してきた生活方針、殺してはならない。盗んではならない。淫らなことしてはならない。悟ったと嘘をついてはならない。酒を勧めてはならない。人の間違いや欠点をあげつらってはならない。自らをほめ、人をそしってはならない。怒りを抱き、自分を見失ってはならない。人としての理念の追求を行い、物心両面にわたり施しを行わなければならないを守り続けることになる。⑫他人に与えることを実践し続けることで自らが画き実現した理想実現が続く。隠れて何かを行えば自らが画いた理想は簡単に崩れてしまうので、仏教徒として、人として成功した人は自らが掲げた理想の実践を継続し、自らが自らを管理し続ける責任を負い続けなければならない。上述のような成功者となる信徒を育成する義務を僧侶は負わされている。しかし現在の僧侶で上述のような成功者となれる信徒を育て、引っ張って行ける実力ある僧侶はどれくらいおられるのだろうか。仏教離れを防ぐため信徒を引っ張っていける僧侶の育成こそが最重要ではないかと思った。