奈良盆地、大阪平野からラクダのコブのような二上山、ズングリとした大和葛城山、貴人のような金剛山が見える。何れも神宿る山で修験道の聖地。葛城天神社は大和葛城山頂付近の奈良県側、伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮を結ぶ神の通り道が通過している。鎮守の森の周囲から奈良盆地の南が見下ろせる。大和葛城山の山裾の葛城一言主神社は東福寺芬陀院の山門-御香宮神社-第2代、綏靖天皇高丘宮跡-葛城一言主神社-高鴨神社を結ぶ神佛の通り道にあり、その境内から奈良盆地が見わたせる。葛城山頂付近や葛城一言主神社及び付近から奈良盆地を望むと天空の下に水が溜まる窪地のような風景が望めるので、易経に当てはめると「6天水訟」天水違行で、帝と民が進む方向は真逆でお互い背を向け合っていると教える。この風景の中に潜む絶対権力者となった雄略天皇とその後継者たちが歩んだ歴史を重ね、本記事で主に支配者の変化を浮かび出すことにした。葛城一言主神社は葛城之一言主大神と雄略天皇を祭る。葛城之一言主大神は天皇家の外戚である葛城氏ではないかと推測されている。伝承では雄略天皇はこの地で雄略天皇と同じ姿をした一言主大神と出会い、矢を射ようとするも大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官の衣服を奉献した。金剛山頂上付近で共に狩りをした。最後に一言主大神は雄略天皇を桜井市脇本遺跡、泊瀬朝倉宮すぐ近くの長谷山口坐神社の地までを見送ったとされている。この故事から推測するに、雄略天皇が出会ったのは後に一言主大神と称された天皇家と同等の軍事力を持つ親戚である葛城氏の長で、狩りと称する合同軍事演習を行い、雄略天皇が葛城氏の長を泊瀬朝倉宮へ招いたと読める。
第21代、雄略天皇は多くの身内を殺害し即位した。天皇と対等の立場だった親戚で豪族の葛城氏、吉備氏と戦い勝ち、全国の豪族を支配し、一方通行の命令を発することができる絶対権力を手に入れた。一言主大神との出会いは専制君主となる前のことだろうが、残忍な雄略天皇の手により天皇をトップとする現代日本につながる専制君主政治がスタートした。専制政治の要は上下の立場の者が争わない事、争いにて解決を求める臣、もしくは民は消され、不満があれば上奏し解決を求めなければならない。天皇もしくはその代理人である臣は下位者に解決案を示し、問題再発を防ぐ規則を定め、下位者全員に命令形式で伝達する。会社組織も同じで、基本は一家団結。会社組織内の全員が会社を愛し、仕事が楽しくできる環境の中、それぞれが役割を果たすことにある。この組織は決断が速く時代の変化に素早く対応し、発展し続けるが、個人の自由発言が押さえ込まれ、君主を含め組織全員が目に見えないプレッシャーの中にあり、親友を求めることができない。良き君主ならば皆が豊かになれ人間らしい生活ができるが、悪き君主ならば内部闘争、疑心暗鬼が発生し人間らしい生活が望めなくなる。20年以上、役所や会社勤務すると実感することである。専制政治がスタートすると臣は君主に従う以外、自らの地位を保つすべがなくなる。民からの訴えを受けた臣は恐ろしい君主へ上奏し解決案の同意を得なければならない。どこまでも君主に付き従う態度にて、柔和で柔軟な物腰と説明にて問題についての理解を深めてもらい、解決への指示を得なければならない。雄略天皇政権が維持できたのは皇后となった仁徳天皇の娘、草香幡梭姫皇女の助言や調停があったからだと思う。
対外的には新羅の求めに応じ高句麗と戦い勝利した。高句麗に滅ぼされた百済に任那の一部の土地を譲り、百済再建をさせるなど、積極外交を行った。これらは専制君主の決断の速さによる成功だと思う。専制君主の遺言は重い。雄略天皇崩御後、星川皇子の乱が起きた。星川皇子を皇位につけてはならない遺言に沿い星川皇子に従った者も殺された。皇位継承した第22代、清寧天皇は援軍を送ったが戦いに間に合わず撤兵した星川皇子の母方、吉備氏の権利の一つを召し上げた。強い専制君主組織が成立すると、人の妄想が入る余地の無い、人智を越えた、天の運行のような運営がされて行く。臣、民だけでなく新しい君主までも、その組織に付された宿命に従わざるを得ない。第23代、顕宗天皇は幼い時に父が雄略天皇に殺され、兄と丹後半島→明石→三木へと逃亡後、牛馬飼いとなり民と共に暮らしていたが、雄略天皇が崩御した後、名乗りを上げた。子が無かった清寧天皇に引き上げられ即位した。顕宗天皇は復讐のため雄略天皇陵の破壊に取り掛かったが、兄に諫められ、以降、民と共に志を同じくして生きることを決意した。僅か3年で崩御したが、兄が第24代、仁賢天皇となり弟の志を継いだ。父が先代の仁賢天皇、母が雄略天皇の娘、第25代、武烈天皇は父がひもじい幼年期を過ごしたせいか父が受けた苦難を復讐するかのように刑罰の判定を好み、被告人の嘘を鋭く見破る特技があった。贅沢そして淫靡な遊戯を好み、民がひもじい思いをしても意に介さなかった。武烈天皇に子は無く、第16代、仁徳天皇以来の直系血脈が途絶えた。仁徳天皇の弟の血流と伝わるヲホドノオウが第26代、継体天皇に即位した。百済の要請に答え新羅や高句麗と対抗するため軍事支援を行った。513年、百済から任那の四県の割譲を願われると同意した。そして任那の軍事力を強化した。日本の強さ、美しさを際立せる政権だった。継体天皇の長子、安閑天皇が第27代に即位するが僅か四年で崩御。子女なし。仮説上の継体・欽明朝の内乱が取りざたされていることから、君主政権内部に疑心暗鬼が走っていた時期だと思う。安閑天皇の同母の弟、宣化天皇が第28代に即位し、新羅に攻められた任那に援軍を送り、蘇我稲目を大臣としたが僅か三年で崩御。蘇我稲目は娘二人を次の欽明天皇の妃としたことで、絶大な権力を掌握した。次代、欽明天皇即位への道を進む時代の中、摂関政治のような政権運営が開始した。母が雄略天皇の外孫の由縁で継体天皇の嫡男とされた欽明天皇が第29代に即位した。552年、百済から仏教が公伝した。蘇我稲目が帰依したため神道との宗教対立が発生した。562年、任那が新羅の攻撃で滅亡した。任那は鉄の産地だったので派兵するも撃退された。そこで百済を支援し軍事的圧力を高句麗、新羅に加え、鉄の輸入を継続させたようだ。専制君主にふさわしい血流を持つ欽明天皇ではあるが、蘇我氏、物部氏の力なくして政権運営が成り立たなくなっていた。天皇が専制君主復活を目指すも実現できない環境が作られていた。母が継体天皇の血を引く宣化天皇の皇女、父が先代の欽明天皇、その第二皇子、敏達天皇が第30代に即位した。新羅を討ち任那復興を望んだ父の遺言に逆らい任那の調、すなわち新羅に朝貢させる政策を執った。廃仏派を擁護し蘇我馬子と対立した。戦いを避け民の生活を優先する政権で、皇后は父、欽明天皇と蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛との間に生まれた異母妹。更に皇后は第31代、用明天皇の同母妹でもあり、第32代崇峻天皇の異母姉でもあり、後に第33代、推古天皇となった。母が蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛、父が欽明天皇でその第四皇子である用明天皇が第31代に即位した。先代からの大連の物部守屋、大臣の蘇我馬子を保留し、仏教問題を雪解けさせるかのように、先代とは真反対に仏教を公認した。息子の聖徳太子が後に深い血縁関係の蘇我氏と共に仏教普及を推し進めた。母は蘇我稲目の娘、蘇我小姉君、父が欽明天皇でその第十二皇子である崇峻天皇が第32代に即位した。蘇我馬子が従兄なのに宮を蘇我氏ら豪族から距離を離して造営した。妃を大伴氏から迎えたことで蘇我氏に危機感を生じさせた。一番大切にしなければならない臣で、深い血縁関係がある蘇我氏をないがしろにする行為を続けたため崇峻天皇は孤立し、困難、困窮の穴に落ち込んだ。その難局を打破するためか、父の遺言に沿い任那復興のため新羅討伐軍二万余を筑紫まで進軍させ、新羅を問責する使節を派遣した。これ以外にも豪族ら支配者層の利益を省みない政治行動を行っていたため、皇族・群臣の同意を得た蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺した。専制君主、第21代、雄略天皇の行いは第32代目が暗殺されることで幕を下ろした。蘇我馬子による崇峻天皇暗殺クーデター後、群臣の勧めで日本歴史初の女帝、第33代、推古天皇が誕生し飛鳥時代へ入った。推古天皇は蘇我馬子、聖徳太子と共に仏教を広めた。遣隋使を派遣し隋に学び、新たな中央集権国家建設への道を歩き始めた。第30代、敏達天皇の皇子が第34代、舒明天皇に即位し13年間の在位後、舒明天皇の皇后が第35代、皇極天皇に即位、その在位期間中に息子の中大兄皇子が蘇我入鹿殺害クーデター乙巳の変を起こし、翌日、入鹿の父、蘇我蝦夷が自害、蝦夷と入鹿の一門は皆殺しにされ、蘇我稲目—馬子—蝦夷—入鹿と続いた蘇我氏本家が一度滅び、大化の改新が始まり、雄略天皇とは違った専制君主制度の構築が始まった。紀元前後、新羅が誕生したと略同時期、イザナギ、イザナミ兄妹夫婦が出現し日本を統一した。イザナギの娘アマテラスと息子スサノオ姉弟の子孫が神武天皇を初代とする君主を生み出した。欠史八代を経て第10代、崇神天皇が初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられた。古墳時代の歴代天皇は専制君主の地位を得るべく政治軍事活動した。日本武尊の第二子、第14代、仲哀天皇、次いで神功皇后による摂政時代、その子で八幡神となった第15代、応神天皇、そして巨大墳墓の第16代、仁徳天皇、以上の天皇が専制君主だったかどうか判然としない。天皇家内での対抗者すべてを殺し、親戚の力を削ぎ、身内をまとめ上げた雄略天皇が日本最初の専制君主なのだろう。多くの人を殺して作り上げた専制君子制度の後遺症は深く、子孫は上述のような困難に遭い、最後に崇峻天皇が暗殺され幕を下ろした。専制君主制度を再構築したのは天智天皇、天武天皇兄弟、唐に学び律令制度を作り法治国家とした。天武天皇以降は複数の女帝、幼い天皇が擁立され、藤原氏による摂関政治の時代へと入り、専制君主に権力が一点集中する弊害を排除した。