小さな簡素な庭だが惹きつけるものがある。それを探るため先ず地理と歴史を調べた。1561年(永禄4年) 細川晴元(1514年~1563年)を幽閉するため、荒廃していた寺が城郭に整備された。1566年に(第14代将軍)足利義栄の居城「普門寺城」になったが、1568年(永禄11年)織田信長の侵攻で退去した。当寺の標高は15m、当寺の約750m北のJR富田駅の標高は16~17m、約1.7㎞北の西国街道の標高は18~22mなので、北になだらかに高度を上げている。それに対し南にわずか0.36~0.37km下った所の132号線の標高が10mなので、北摂山系からなだらかに下ってきた台地の南端にある。西1.45kmJR総持寺駅の標高は16mだが、更にその西0.3㎞には天井川の安威川が流れている。東1.75㎞の天井川の芥川付近の標高は9m、芥川の淀川合流地点の水面標高が8~9mなので、築城時は芥川、安威川、淀川の三方が湿地帯に囲まれた半島状になった台地の南端にある城だった。現在、周辺が住宅地に変貌しているので当地に城があったことは想像しにくいが、寺周囲の土塁、周辺に点在する掘の跡から、方丈を中心として半径500mほどの城だったことが判る。築城当時は全方向に見晴らしが良く、大湿地帯の先に生駒山山頂、男山が綺麗に見えていたことが想像できる。庭の西隣にある細川晴元(1514年~1563年)の墓が戦国時代を証言し続けている。1655年(明暦元年)から1660年(万治3年)頃まで、隠元隆琦が住持として滞在し隆盛した。その時期、後水尾上皇(1596年~1680年)が来訪している。隠元隆琦が万福寺に移り当寺は衰退を始める。1661年頃、隠元を招き入れた龍渓が隠元に関わる物品を持ち慶瑞寺へ移ったため、隠元禅師を偲べるものは扁額と石畳の参道のみとなった。その後、境内の一部が本照寺に割譲させられた。本照寺は西本願寺本山への出入りを許されなかった被差別部落民門徒の実質的な本山(穢多寺の統括)として発展した。明治の廃仏毀釈で東南側に隣接する三輪神社を分離させられ、本堂があった南側は学校にされた。第二次世界大戦から敗戦後まで、人が寄り付かない寺になってしまった。塀が崩れ、方丈に野犬が住み、庭石が持ち去られ廃墟寸前となった。現住職一家が当寺を復活させたが、1968年、南側にあった富田小学校が移出しても土地の返還はされず市営住宅が建てられた。(京都)勧修寺と同じく苛められた歴史を持つ。廃墟寸前で復活したのは勧修寺と同様によほど強い遥拝線(神の通り道)を持つからだと思い、遥拝線を探った。当寺の方丈など建屋は南の高野山大門に向けて建てられ、本尊は高野山大門を遥拝している。方丈の約60m東北にある隣の本照寺の本堂と参道は清和天皇水尾山陵遥拝方向に建立されており、参拝者に清和天皇を拝ませている。当寺と隣の本照寺とは明らかに目指す方向が異なっている。よって当寺には特別な遥拝線が隠されていると思い、多方向に探った。当寺の方丈など建屋は西のブッダガヤの大菩薩寺に向いている。隠元禅師が住持として滞在した寺なので、伽藍を西にブッダガヤの大菩薩寺、南に高野山大門を遥拝する向きとしたのだろう。庭の南にあったはずの客殿も同じくブッダガヤの大菩薩寺と高野山大門を遥拝していたことだろう。当地から美しく見えていた生駒山山頂付近へ向けてグーグル地図上で線を伸ばすと生駒山手前(四条畷市)で藤原鎌足を主祭神とする忍陵(しのぶがおか)神社の本殿中心を通過ー生駒山山頂付近を越えー(奈良)神武天皇畝傍山東北陵の西側ー丸山古墳(畝傍陵墓参考地)中心ー高松塚古墳中心ー文武天皇陵に至る(直線)遥拝線が見つかった。この線は生駒山山頂の東北150m付近を通過するので、伽藍から生駒山を見て山頂すぐ北側が遥拝目印となっている。当地から東北方向に見えていた男山(石清水八幡宮)の先には藤原氏とその関係者の陵墓群「宇治陵」がある。男山はその遥拝目印となっている。庭の名前が「観音補陀落山の庭」なので、中国浙江省舟山群島の普陀山を起点とし当寺に向け線を引いて見たが、当寺で普陀山に向く建屋はなく、庭も普陀山に向いていなかった。慧萼(えがく)が観音菩薩像を普陀山に祀った故事を画いただけで遥拝とは関係なさそうだ。庭は玉淵が阿武山を借景として作ったもので、庭の中心石を観音菩薩に見立て、中心石を介し阿武山の聖なる気を庭に取り込むことを意図したものだ。現在、借景の山々が見えなくなっているので直接確かめることはできないが、庭の石組は北摂山脈とその手前の継体天皇三嶋藍野陵、今城塚古墳などの古墳群に合わせ、山々を雄大に見せるために配したように見える。阿武山にある阿武山古墳の被葬者は藤原鎌足(中臣鎌足)と言われているので、公家(藤原家)を敬う庭だ。隠元隆琦が当寺で黄檗宗布教していた時期、後水尾上皇は徳川家光と紫衣事件(1627年~1632年)で対立していた。紫衣事件解決後、徳川征夷大将軍が天皇よりも高い権威を得た。公家の祖先である藤原鎌足(中臣鎌足)の礼拝庭にて後水尾上皇を歓待したのではないのだろうか。阿武山古墳中心から談山神社 (藤原鎌足を祭神とし、藤原鎌足、藤原不比等の墓がある談山神社の)本殿へ線を伸ばすと、線は当寺の旧境内、本照寺境内の西の端を通過した。阿武山全体を神体山と見なすと、当寺は阿武山と談山神社を結ぶ帯の中にスッポリと入っている。神となった藤原鎌足が行き交う帯の中に当寺がある。後水尾上皇が比叡山を最も綺麗に見ることができる地に作った円通寺庭園と比べてみると、円通寺建屋は比叡山山頂方向から約15度時計方向に向いている。円通寺建屋内で建屋方向に座り約15度左に首を回した位置に比叡山山頂がある。当寺方丈は阿武山古墳に向いて約30度時計方向に向いている。客殿も同じ向きに建てられていたはずなので、客殿建屋内で建屋方向に座ると首を約30度左に回した位置に阿武山山頂があったことになる。建屋が向く高野山大門と当寺方丈を結んだ線を北に伸ばすと(大阪府高槻市)今城塚古墳の西部分に到達するが、その遥拝線と阿武山古墳-談山神社本殿を結んだ線との角度差は時計方向に約30度、客殿から庭を通し阿武山を直接遥拝することは、背後に談山神社が控えて拝むことになる。廃墟寸前まで荒廃していたのに復活したのは阿武山と談山神社を結ぶ帯の中に当寺があったからではないだろうか。逆説的に言えば公家の力を削ぎたかった江戸幕府、明治~昭和政府が本寺の規模縮小を進めたのはこの遥拝帯の中に当寺があったからではないのか。比叡山と円通寺の距離は13㎞、円通寺標高は107m、比叡山標高は845m、その高度差は736m。それに対し当寺と阿武山までの距離は4.81㎞。当寺標高は15m、阿武山標高は281m、その高度差は266m。両者の距離と標高差を比較すると比叡山と阿武山は同じような大きさで見えることになる。方丈から阿武山は真北に向けて約30度西寄りなので、太陽光を受けた阿武山の樹木は美しく見えたことだろう。庭の奥、阿武山方向に立つ白い中心石(観音石)の輝きは阿武山を引き立てたことだろう。中心石は樹木の陰の中にある。作庭された頃、客殿の影で庭は少し暗かったと思う。円通寺庭園と同じく暗い室内から庭先の数本のスギとヒノキなどの巨木の幹と幹との間に北摂山系を見せる庭で、中心石がある先の阿武山の霊気を庭に流れ込ませていたと思う。中心石になびくように並べられた龍骨のような石組みは談山神社から飛来した夫婦龍が阿武山に向かって飛翔する姿を表現したのではないだろうか。庭の石は白いものが多いので、月夜に白く輝くはずだ。方丈の北側の空は開け放たれていたと思う。方丈の北上空の北極星を見せ、北極星を中心に回る北斗七星などで鑑賞者の心に星は北極星を中心に回っていることを沁み込ませていたと思う。近年、観音補陀落山の庭を美しく見せるため、南側に黒い玉石で作った枯山水池を設け、サツキの端正な大刈込を控えさせ、多くの花を咲かせている。方丈南にも端正な枯山水庭が設けられていた。歴史の断片がちりばめられた境内に近代美が添えられていた。