金剛峯寺 中庭(坪庭)

(主殿)奥書院の東側廊下、伝灯国師真然大徳廟に向かう廊下の西側、北側建屋の南廊下、そして稚児の間の北側廊下に囲まれたところに角形の中庭(坪庭)があり、水面に映る月、空、花木を楽しめる。頭が平たな神の着座席のような石(座禅石)はほとんどなく、丸い小動物のような形の石でまとめられているので優しい。池の西北は尖り、聖なるところから水が流入しているように見せている。季節を感じさせるアセビ、サツキ、シャクナゲ、カエデ、日陰で綺麗な葉となるヤツデや苔、屋根の上に見える高野六木にて山奥の雰囲気を、カサスゲのような多年草、シダにて湖畔の雰囲気を出している。シャクナゲの幹を地面に這わせる技巧を使っているので江戸末期の作品かと思って見たりした。閉鎖空間にある鏡面の池面に月を反射させ、静寂さと池鏡面の風景を楽しませる庭だ。坪庭に置かれた蹲、水鉢と同じ理屈で、鏡花水月を表現している。水面鏡に映った花や月を見せてはいるが、花や月は手にとれない。意味するところは理論や理屈を述べる言葉では伝えられないことがある。感覚により心に訴えるしか伝えられないことがある。仏教は書物を読むだけでは会得できず、師に付き従い修行しなければ会得できないことを説明している。鏡花水月の庭は禅定の境地、般若心経の境地をも表現している。水面鏡に映る花は映っているだけ、万物の源のような太陽・月すら鏡水面に映っているだけ、本物の花・太陽・月はすでに実物から離れたもので、実体は無い。風の無い池の水面が鏡面となるように、落ち着いた心の表面も鏡面となり森羅万象を映す。しかし、池の中に何の実物も取り込まれないように、心の中にも何一つ取り込まれるものはない。諸欲を離れ、戒律を身に着け、修行を経て禅定の境地に達すれば、心はすでに喜も、楽すらも超越し、無限の宇宙と一体となっている。そのことを小さな庭は見せている。易経の観点から庭を観ると澤の上に太陽、もしくは火だるまの太陽の光を反射する月があるので「38火澤睽(かたくけい)背反して応和」男女の仲のように進む方向が真反対でお互い背中を向けあって生きてはいるが、永遠に通じ合うものがある。そのような慈しみの感情を起こす形になっているので、鑑賞すればするほどに感傷的な気にさせられる。