織田長益の活躍
1582年(天正10年)本能寺の変の際、旧二条城にいた織田長益(有楽斎1547年~1622年)は安土城、岐阜城へと逃避した。まるで光秀、家康が長益を生かしておく必要があると判断し、導いて逃がしたような逃避行だった。本能寺の変以降の長益の実績から、長益は徳川家康のために懸命に働いたことが読める。織田信雄の配下で参戦した小牧・長久手の戦いにおいては、戦後、家康と秀吉の講和折衝役を務めた。1590年(天正18年)織田信雄が領地をはく奪され流罪となった際、長益は秀吉の御伽衆として味舌(摂津市三島3丁目)2,000石を領し、有楽と称するようになった。1596年(慶長元年)当地で五男、織田尚長(柳本藩初代藩主)を生んだ。味舌領は長益から尚長の兄、長政(芝村藩)に譲られ、後に加増され2,148石となり、幕末まで芝村藩が管理した。長益とお市の方は同い年、1589年(天正17年)お市の方の長女、淀殿の鶴松出産に立ち会うほど淀殿との関係は深く、秀吉亡きあとは家康に仕え、家康のために豊臣家滅亡への流れを作る仕事をしたことが想像できる。1635年(寛永12年)馬場宮と称していた八幡宮境内に(長益五男)尚長が菅原道真を祀る社殿を造営し、八幡宮を摂社とし、味舌(ました)天満宮とした。社殿(本殿)は地元の吉志部神社と藤森神社の両鳥居を結んだ線上にあり、当地中心にある。グーグル地図上で味舌天満宮の周囲を見ると北1.1㎞に「流れの馬場跡」「勝久寺」がある。1570年(元亀元年) 野田城・福島城の戦い中だった信長は9月16日に起きた宇佐山城の戦いに対処するため、9月23日撤退命令を出し京都に軍を移動させた。途中、江口から味舌方面へ渡河しようとするも一向宗門徒が舟を隠し渡河を阻止した。信長は浅瀬を探し、軍を徒歩で渡河させ京都に戻ったが、信長が倍返し報復をしないはずがない。1580年(天正8年)信長と本願寺の和睦後の4月9日、顕如と共に多くの僧侶・門徒が本願寺を退去しそれぞれの故郷に帰った。味舌に帰村した勝久寺住持・門徒が5月28日に法義談合しているところを信長軍が不意に襲撃。堂舎を焼き、多数の門徒達を殺害、あたり一面を血の海とした。それから10年後、長益が味舌に領主として入ったことは一向宗関係者内で大ニュースとなったことだろう。一向宗門徒と豊臣家/徳川家の良好な関係作りのために味舌領主に任命されたのではないだろうか。馬場宮を味舌天満宮にしたのは「流れの馬場」事件を払拭したかったのではと推測したくなる。味舌天満宮の西北約2.1㎞(鎮守の森の中に多くの窯跡がある)吉志部神社の地は古来より渡来人が居住した。崇神天皇時代に大和から奉遷して大神宮と称したと伝わる。戦国時代に焼失した本殿を1610年(慶長15年)吉志一族の末裔、吉志家次、一和兄弟が再建した(現在の本殿は2008年不審火により全焼し再建されたもの)。味舌天満宮の東南2.7㎞(戦国時代に社殿を焼失したと思われる)藤森神社(摂津市)は1577年(天正5年)社殿が建てられた。この地は大化の改新以前に朝廷に鳥を供給していた鳥養部の居住地と伝わり、宇多天皇(867年~931年)は、この地にあった離宮に度々行幸したと伝わっている。味舌天満宮の南約1㎞には785年(延暦4年)旧神崎川と安威川合流地点東側に移築された味府(あじふ)神社がある。味舌天満宮の南南東2.4kmには785年(延暦4年)旧神崎川の起点付近治水工事の際に移築された味生(あじふ)神社がある。味舌天満宮の東北東約5㎞には豊臣家家老の片桐且元(1556年~1615年)の居城、 茨木城がある。長益は且元に人質を出していたが、大阪の陣直前、且元が豊臣家を見限り大阪城を去った際、人質は返された。明治11年に神崎川が付け替えられるまで、神崎川は味生神社付近で淀川から分岐し神崎川となり、しばらく淀川と並行に流れ、江口で北上し味府神社近くで西に流れを変え、しばらく支川の安威川と並行に流れ合流していた。砂の堆積が多い淀川下流は水運に使えず、西国から来た京都方面を目指す人や物資は神崎(江戸初期、尼崎港に役割移転)で川舟に乗り換え、載せ替え神崎川を上り、江口から淀川に入った。そのため江口は歓楽地として栄えた。味舌北側を通過する亀岡街道は神崎川を渡る吹田の渡しでつながっていた。吹田は神崎川を利用した水運の荷揚げが行われ栄えていた。このように味舌付近は人の往来が多く、諜報活動に便利、移動に有利な地であった。味舌天満宮の参道と本殿、拝殿は大普賢岳、吉野、桝山古墳を遥拝している。本殿と(修験道の聖地)大普賢岳頂上を結んだ線は(殉死禁止令が出ることになった)桝山古墳-(修験道宗派の一派本山本堂)金峯山寺蔵王堂を通過する。この線の両側には多くの古墳、寺社がある。遥拝先に勇ましいものはなく、自己鍛錬と祈りの地を選んでいる。武の神を祀る八幡宮を摂社とし、知恵の神を祀る天満宮としたことも意味深い。大阪府下には信長の多くの戦跡がある。1568年(永禄11年)摂津侵攻の際に砦を築いた今城塚古墳(物資補給拠点として活用された)。元亀元年(1570年)野田城・福島城の戦いの戦跡。1573年(天正元年)若江城の戦いの戦跡。1575年(天正3年)高屋城の戦跡。1576年(天正4年)天王寺砦の戦いの戦跡。木津川口の戦いの河口。石山本願寺跡の大坂城。1577年(天正5年) 雑賀侵攻のための泉南での戦跡。1579年(天正6年)有岡城の戦いで荒木村重の拠点となった有岡城、吹田城、茨木城、高槻城、能勢城。1581年(天正9年)僧侶800名皆殺、焼き討ちした槇尾寺などで、これらの戦い、事件は長益の元服後に起きており、長益が大坂で活動開始した時期よりそれほど以前の出来事ではない。よって大坂での仕事は相当なプレッシャーがあったことが想像できる。多くの虐殺事件を起こした信長だが、日本人に愛され続けているのは長益が時代の流れに乗り適切な行動を取ったこと。和を尊ぶ茶道家元となり、有楽流、貞置流、尾州有楽流が長益の生き方を継承したからではないだろうか。更に、戦国時代を生きのびた信長の子供と弟たち、その子孫が大名、旗本、高級藩士、名士の奥方として、自らの立場をわきまえた行動をしたことが大きかったと思う。大名になった長益(ながます)と信雄(のぶかつ)、その子孫が歴代藩主を務めた芝村藩、柳本藩、天童藩、柏原藩が明治維新まで存続したことも大きいと思った。織田家は信長と(同母の弟の嫡男)信澄以外、常識ある真面目な方々からなる一族だと思った。