先の記事に書いたが(黒井城下)興禅寺の堂宇が落成したのが1626年(寛永3年)、興禅寺には大神山神社奥宮と当寺境内の地蔵菩薩像を結ぶ神佛の通り道があり、堂宇は両聖地を遥拝していた。対して当寺境内の二つの首塚は1582年(天正10年)坂本城が落城時のものと伝わるが、当寺は興禅寺の落成より後の1638年(寛永15年)高島市今津町から佛堂ごと移され、毎年8月の5日間、天台座主の登龍門とも呼ばれる天台宗高僧による「戸津説法」が引き継がれている。大神山神社奥宮と当寺を結ぶ神佛の通り道を強固なものとするために天海が制定したものではないかと思った。坂本城は証拠隠滅をしたかのように何の城跡も残されていない。付近を歩くと多くの小さな社や堂、小さな石佛像を見かけるので、多くの人がこの地で亡くなったことは見て取れる。当寺の東北約100mにある明智塚、当寺の北北西2.5㎞にある西教寺境内の自然石で作られた明智光秀一族の墓、当寺の南約3.6㎞にある坂本城に向かう明智秀満が馬を繋いだと伝わる松、(亀岡)谷性寺にある明智光秀の首塚、共通点はどれも小さい。千利休なのか天海なのか判らないが、同一人物がこれらを建立手配したような、威張らない、小さいという共通点がある。当寺の佛堂は西の(京都上賀茂神社)賀茂別雷神社本殿を遥拝している。その背後には愛宕山と愛宕山神社が控えている。気になったのが当寺佛堂と(韓国巨済島)見乃梁城(倭城)を結んだ線が賀茂別雷神社本殿のすぐ南側(境内)-愛宕山頂上と愛宕神社の間-(丹波国一之宮)出雲大神宮の本殿と磐坐の間-八上城跡の南約100mを通過したこと。佛堂はこれら聖地、城を遥拝していると言える。これら聖地と城はすべて明智光秀と関係あるので、見乃梁城(倭城)も千利休-(特定できないが)倭城を拠点に朝鮮半島で明軍と李氏朝鮮への調略活動をしていたと思える人物-天海と関係があるのではないか。尚、佛堂は南には(奈良)三輪山を遥拝していた。明智荘から光秀と一緒に越前に逃亡したように伝わる明智秀満、明智光忠は忍者か特殊工作員のような働き手だったので、彼らの行いと歴史記述は違うはずだ。本能寺の変で先鋒を務めた明智秀満、本能寺の変で攻め手を務めた明智光忠、この両名は坂本城落城で明智一族及び自分達の妻を刺殺し、自害したのだろうか。坂本城落城時に明智一族が城に籠っていたのだろうか。戦国時代なので、明智一族が姓を変え、新天地で暮らすことは容易にできたはずで、両名は坂本城落城と共に明智一族が滅びたように見せかけ、高跳びしたと想像してしまう。越前朝倉氏が信長に都合の良いように滅んだ姿を見ると、明智光秀の調略によるものだと感じる。丹波攻めでも調略を行った。光秀が今井宗久を使い、堺を信長に従属させたのだと思う。(奈良)今井町では自由な商売を条件に武装解除し信長に従わせた。光秀は調略を得意としたので、織田信長、細川藤孝、徳川家康と共謀し本能寺の変にて、信長・信忠らを逃亡させ、信忠をヌルハチに背乗りさせ、女真族統一そして後金の樹立、清朝の樹立につなげることを画策し、実行するくらいのことはできたと思う。本能寺の変の後、不自然な動きをした細川藤孝は光秀との密約通りに行動したまでだろう。戦国時代を幕引きさせた千利休-(特定できないが)朝鮮半島で明軍と李氏朝鮮を調略した人物-天海は明智光秀と光秀の親族の複数者が演じたと私は読んだ。平和第一の徳川幕府を開いた徳川家康は少なくとも3名が交代し家康を演じたのではないだろうか。1代目の家康は1577年~1578年頃に暗殺されたのではないだろうか。嫡男の信康を自害に追い込み築山殿を殺害したのは、家康が2代目に代替わりしたことを隠蔽するためだったのではないだろうか。もし信康が自らの父親が殺害されたことを知り、別の人物が家康だと知れば徳川家が真二つに割れる恐れがあり1579年(天正7年)に自害させたのだと思う。1代目の正妻、築山殿は初婚、側室の(築山殿の奥女中)長勝院も初婚者。それに対し天正7年に秀忠を生んだ西郷局は再婚、西郷局に続く側室には再婚者が多い。2代目の家康は自らの立場と似た2つめの家族を作る再婚者を好み、その子孫が徳川家一族を作ったと推測する。晩年の家康は少女愛好者となっている。晩年は3代目ではないだろうか。好みの女性の変化から少なくとも3名の人物が家康を演じたと推測した。