織田信長の躍進(9)
1570年(元亀元年9月)、石山本願寺の蜂起に連動し長島一向一揆が勃発した。本願寺が派遣した下間頼旦らが司令となり、数万となった衆が長島城を攻め占領、次いで小木江城(信長の弟、織田信興を自害させる)、桑名城を攻め占領した。信長の統治に閉口していた北伊勢の小豪族が長島一向一揆に加担したことで戦の指導があり戦上手だった。一方、信長軍は志賀の陣で浅井・朝倉連合軍と対峙しており、長島を中心にした地域が本願寺の自治領になったことを認めざるを得なかった。翌年から1574年まで長島一向一揆衆を殲滅するため信長は3度、長島に侵攻するも、2度は撃退され手痛い目に合う。1571年(元亀2年5月)5万の軍勢で第一次長島侵攻するも本願寺側には鉄砲集団の(傭兵)雑賀衆がいた。雑賀衆は優秀な射撃者に5名の玉込め兵を付け、5丁の鉄砲を取り換え連続射撃する技を持つので、特に守備の固い城内からの狙撃を得意としていたことが推測つく。撃退された信長軍が退却する時に、戦争プロの指導により退却途中の道の狭い所に弓兵・鉄砲兵を待ち伏せさせておいて、本軍を通り抜けさせ殿軍を襲う方法で柴田勝家を負傷させ、氏家卜全と家臣数名を戦死させた。1573年(天正元年9月)数万の軍勢で第二次長島侵攻を行う。第一次侵攻を反省し水上からの攻撃を行う予定だったが、親戚の北畠氏の妨害で船が準備できず、いくつかの城を攻略しただけで撤退した。撤退途中2年前に柴田勝家が負傷したと同じ所で待ち伏せされ同じように殿軍を襲われ林通政と多数が戦死する。本願寺側には伊賀・甲賀の兵がいたので、この時も財力にものを言わせ傭兵を用いていたのだろう。1574年(天正2年6月)一カ所攻撃における軍数において、信長の生涯中最大の陸軍動員数7~8万(3個陸軍集団)と1個海軍集団の軍勢で第三次長島侵攻を行う。7月、陸と海から作戦が開始された。東から織田信忠軍、西から柴田勝家軍、中央から信長本軍が、海から九鬼嘉隆水軍(水上で長期滞在できる大型の軍船、安宅船120隻)が所定位置まで軍を進め、包囲に必要な砦を落とし本願寺側約3万人(婦人と子供を含む)に対する兵糧攻めに入った。9月末に兵糧が尽き、下間頼旦ら首謀者の命と引き換えに助命を求めて来た。信長は助命を約束した。翌日、長島城が開城、船に乗るため城内から全員が出てきたことを確認し一斉射撃(騙し撃ち)、下間頼旦を含め略全員を射殺した。一斉射撃されたことで約800人が裸で防備の薄い所に捨て身となって突撃してきた。(織田信長の庶兄)織田信広、(信長の弟)織田秀成など多くの織田家の人間と7~800名が戦死した。突破できた一部の者は川を泳ぎ逃げた。鉄砲での多人数射殺はリスクがあることを知った信長は残っていた2つの城に対し城周囲に幾重にも柵を巡らせ逃げられないようにした上で、火攻めにし、城内に籠る全員を焼き殺した。この一揆の原因は、1570年(元亀元年8月)三好三人衆が野田城、福島城で挙兵したが、9月、信長軍が優勢になると(石山本願寺)顕如が突然蜂起したことにある。顕如が蜂起の決断をした理由は信長が顕如に移転費用を払い、移転先を提供するので石山本願寺の土地、建屋を明け渡すよう要求していたことにある。蜂起はそれに対する回答となった。蜂起後、顕如はすかさず浅井・朝倉に軍出動を要請、篠原長房に援軍要請、(長島)願証寺に蜂起するよう指示した。ここに信長と顕如の10年戦争が始まる。この時、顕如の要請で動いた者は後日すべて信長に滅ぼされた。信長包囲網は足利義昭が扇動したものだが、その実、顕如が画策し、足利義昭がその代理をしたと考えた方がよさそうだ。全国の大名は顕如の一向一揆発令を恐れていた。よって顕如はいくつかの大名を動かせた。浅井・朝倉が短時間で連合軍を編成し京都に向かったこと。毛利氏が石山本願寺に兵糧を送り続けたことはその証拠だ。さらに本願寺は当時日本一と言われた莫大な財を持っていた。江戸時代においても薩摩藩、人吉藩が一向宗を禁教としたことからもその実力の程が判る。金ヶ崎の戦いは浅井長政と織田信長の同盟関係を潰すために顕如を含めた勢力が画策し、信長を嵌めたものではないかと疑う。金ヶ崎の戦い以前の信長の戦を振り返ると、今川義元を嵌めた桶狭間の合戦以外は、お家騒動で弱体化した隣国を大軍で攻め領地拡大しただけ、天下布武に至る核心的な戦いではなかった。金ヶ崎の戦い以降の戦いこそが日本統一事業を成し遂げるための戦いで、命がけの戦いだった。信長は顕如との10年戦争に勝ち、宗教団体に武器を放棄させる前例を作った。その後、秀吉によるキリシタン大名の排除、バテレン追放令、家光による島原の乱平定で37,000人の信者を虐殺した例があるがこれらは外国勢力との戦いである。本願寺、延暦寺に武器を放棄させ、そして高野山を包囲、根来寺を攻撃したことで、平安時代末期以降続いてきた宗教団体による武力行使を完全に止めさせた。双方に大きな犠牲者を出したが、これこそが信長の最大成果と言えるのではないだろうか。余談になるが、1576年(天正4年)顕如は信長との直接合戦を起こし、天王寺の戦いで信長を負傷させるも野戦に大敗し長い籠城戦に入る。1580年(天正8年3月)信長と和睦した顕如は石山本願寺を退去した。一緒に戦ってきた長男の教如はそれに憤慨、徹底抗戦を唱え籠城し続けたが(8月)朝廷の説得で石山本願寺を信長に明け渡す。後に顕如ら穏健派は西本願寺(浄土真宗本願寺派)へ、教如ら強硬派は東本願寺(真宗大谷派)へと分かれた。以前、渉成園(枳殻邸)の記事で書いたが、東本願寺本山及び渉成園は全体で東に久能山東照宮を、南に熊野本宮大社をピッタリと遥拝し、完璧に徳川幕府に恭順する姿勢を示している。対し西本願寺本山の建屋、敷地は駿府城・久能山東照宮に向いているがピッタリではなく、ごくわずかにずらせてある。何もかも同じ両派であるが、建屋の向きの違いが性格の違いを表現している。