東福寺僧侶の心構えを画いた庭
(奈良)巨勢山古墳群を指さす通天橋を北に向かって歩き、突き当りを右(東)に向きを変え泉涌寺光格天皇、仁孝天皇後月輪陵を拝する方向へ伸びる廊下を進み、廊下の端で左(北)に向きを変え背が高野山金剛三昧院に、前に智積院密厳堂・金堂・明王堂そして大谷本廟方向を遥拝する階段を上がり、楼門を潜り、庭中央の石畳参道から開山堂伝衣閣に到るようになっている。伝衣閣、石畳参道、楼門、楼門前階段は高野山金剛三昧院と大谷本廟とを結んだ一本線上にあり、智積院密厳堂・金堂・明王堂もその線上にある。更に開山堂、普門院の建屋すべてが高野山金剛三昧院、大谷本廟、智積院を遥拝する方向に向いている。階段を上る時、楼門を見上げると、門の枠内いっぱいに伝衣閣が迫ってくる。まるでテレビ画面いっぱいに聖一国師を祀る伝衣閣を見ているようだ。階段を上がり切り楼門に立つと、楼門から伝衣閣に真っ直ぐ伸びる一筋の石畳、右に築山と川池、左に白砂の一部と亀島のモッコクが見える。川池手前に六角の手水石鉢が置かれている。この小さな手水石鉢が遠近感を際立て、川池をより細長く、築山が奥まで続いているよう、川池、築山、伝衣閣を大きく見せる。手水鉢には綺麗な水が注がれていてハットする。石畳みに沿うような細長い川池の水も透明だ。川池には鯉が泳いでいない。この心字川池に煩悩の象徴である鯉を泳がさないことで、ここには煩悩が存在しないことを示している。モッコクは来訪者に威圧感を与え、来訪者の足を一旦止め、手水鉢の透明な鏡面水面の心理効果で美しく清い庭を心静めて見せる作用を果たしている。中央の石畳を開山堂伝衣閣に向かって歩く。石畳の右側、築山の奥には山深く見せる樹木群がある。更にその300~750m先には泉涌寺の陵墓群がある。よって右側は霊界のように見える。澄んだ水の川池に魚が泳いでいないので、生き物が生息しない三途川に見えてくる。石畳の左側には天を指す、人より大きな石があり、その石を境として白砂が広がる。白砂の奥には僧侶の生活の場である普門院があり、その背後には京都盆地が控えているので、左側は人界だと感じる。伝衣閣から楼門を見て石畳路の左は光を吸収する陰の世界、右は太陽光を反射し太陽熱を貯える暖かい陽の世界、一条の石畳を境に生死、陰陽を明確に表現している。生と死、陽と陰の境の石畳を歩く僧侶の姿は絵になる。築山に沿って伸びる長細い川池には細長い石橋が掛っている。石橋を渡れば霊界に入ることを暗示している。築山には切れの良い石々が置かれ、丸刈りした多数のサツキを配している。開山堂伝衣閣の内部を覗き見ると北京紫禁城で見た、皇帝が中央奥に座り臣下を見おろすに似た雰囲気がある。この庭の周囲は北に開山堂、東に築山、南に楼門と通路、西に普門院となっている。伝衣閣から楼門を望むと、門の枠内に先ほど上がってきた廊下の屋根裏が見える。屋根裏が門枠の視界を塞いでいる。よって庭は閉鎖空間と感じる。庭のある院内に入った者はここから容易に出られないことを暗示している。そして音が庭に籠る。声がこだまする。読経が宗教的となり、師の言葉が心に響く構造となっている。伝衣閣から楼門を見て左は死の世界、右は生の世界。二つの世界を一筋の石畳が分けている。一旦開山堂の境界(院内)に入ると容易に出れないと感じさせ、覚悟を決めさせた修行僧が生と死の際を歩き、生と死の意味を追及しながら、石畳を歩き開山堂伝衣閣に近づき聖一国師の教えに近づくことを意味している。築山上の多数の佛石が石畳を歩く修行僧を見つめている。禅修行を判り易く説明する庭として日本一ではないのだろうか。普門院の縁側に座り白砂、亀島、築山、築山背後の樹木、空を見た。白砂面は普門院客間の中央部分で高く、両側(南北)は少し低いブラウン管画面のように弯曲している。亀島に立つ先端を天に向けた大きな石がこの庭の中心石だと気が付く。中心石が築山を遠くに広く見せる効果を発揮している。縁側に立っても石畳参道に沿う三途川のような池は見えない。こちらから見た庭は白砂面が霊界と生界とを隔てる海となっていて、彼岸と此岸を見せる。通常の白砂面では水の流れ、波を描くが、ここは市松模様でベタなぎ、波立たない海を表現している。ここから庭を見ることは泉涌寺の陵墓群に思いを巡らすことに通じているので、心に波立てることなく陵墓を敬う意味を込めたと推測した。この庭は東福寺僧侶の心構えを画き、生死の意味を追及し、開山した初代住職を真似することで悟りを得る禅宗の本質を見せている。建屋、石畳の直線部は源氏の聖地、陵墓、古墳、他寺院を遥拝するためにある。最初に述べた高野山金剛三昧、大谷本廟を結んだ線(A線)は石畳を貫いている。東隣の泉涌寺雲龍院と出雲大社本殿とを線で結ぶと、その線は庭の中心、普門院、東寺(北大門、大日堂)、西芳寺を通過する(B線)。建仁寺大書院と熊野本宮大社大斎原とを線で結ぶと、その線は開山堂、庭の中心、楼門、東福寺方丈、伏見稲荷大社奥宮を通過する(C線)。この3つの神仏の通り道(ABC線)は庭の中心点で交差している。建屋及び参道が遥拝していることで、庭に神仏の降臨を感じる。封建制度の庭を囲む建屋、通路は必ず遥拝先を持っている。その基本思想はお互いに礼節を持ってつながり合うということなのだろう。遥拝を使った庭には神仏を降臨させるために白砂、権現石、神の降臨石、樹木などが配されている。現代庭園も封建時代の遥拝と神仏の通り道を取り入れ、お互いが遥拝することで人は礼節を持ってつながりあっていることを表現すれば良いと思う。封建制度は消滅したので遥拝技法、及び複数の神仏の通り道が交差する地に庭を配することを真似ても支障は無いと思うがどのようなものだろうか。