陵墓の神々と語りあうための庭
小さな古墳のような守修親王墓、淑子内親王墓、朝彦親王墓の北側参道はスギ、アラカシ、シラカシの大木で覆われ、目線のところに日陰で育つアオキ、カクレミノ、ヤブツバキの葉が密集している。薄暗い参道を登り抜け当寺の山門に到ったので、太陽光が射しこむ穴が森に開けられ、そこに山門があるといった感じを受ける。少し青みがかった白壁に5本筋が入った築地塀が当院の格式の高さを示している。勅使門、山門、本殿、書院など建屋群が西北西に梅宮大社を、南南西に日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)及び応神天皇惠我藻伏崗陵を遥拝している。建屋群が日本武尊陵、応神天皇陵を遥拝していることが泉涌寺別院らしさを感じさせる。東福寺の東経は135度46分26.74秒、熊野本宮大社大斎原(本宮大社旧社地)の東経は135度46分27秒なので両者は正に南北関係にある。当院は東福寺より約500m東にあるので、熊野本宮大社大斎原より500m東となるが、大斎原と略同じ時間を過ごせる庭なので、悠久の時が流れている気にさせられる。当院と出雲大社本殿とを線で結ぶと、その線は東山本町陵墓参考地、東福寺塔頭普門院、東寺(北大門、大日堂)、西芳寺境内を通過する。東福寺本殿と熱田神宮本殿とを線で結ぶと、その線は当院と月輪陵を通過する。東福寺方丈と久能山東照宮とを線で結ぶと当院と後月輪陵を通過する。日光東照宮と徳川家康公正室旭姫墓とを線で結ぶと当院のすぐ東側の月輪陵、後月輪陵を通過する。このように庭は源氏(徳川家)の遥拝線の中にある。当院は陵墓群の中にあり庭は月輪陵背後の東山を借景としている。サツキとツツジの丸刈りを波のように見せただけの単純な庭であるが、サツキとツツジの丸刈りが波打つ大海のように見え、書院側のサツキの大刈込の堤防の先に大海を望む風景となっている。見れば見るほどに引き込まれていく。まるで波の中に引きこまれ、自身が大海の大波に飲みこまれて行くように感じる。或いはサツキとツツジの丸刈りが陵墓のようにも見え、見えないが庭の背後の月輪陵など陵墓を意識させ、陵墓が発する霊気がこの庭に宿っているように感じさせている。地肌を見せる庭特有の優しさと共に、地肌を見せることで大地、ひいては陵墓と語り合う庭となっている。庭歩きをしない人からすれば地肌の見える庭は田舎の作業庭に見えるだろうが、ここは地面が発する凄まじいエネルギーが感じられる。それにしても庭全体が発するエネルギーが尋常ではない。まるで庭全体が月輪陵の一部のような霊界の雰囲気を漂わせている。庭に築山はなく、さりげなく置かれた中心石のような石、その背後に石灯籠を立てた構成により庭に集中させられる。中心石と石灯籠を結んだ線の先の聖地として考えられるのは醍醐天皇後山科陵、或いは伊勢神宮(内宮)。当院と伊勢神宮を結んだ線上に朱雀天皇醍醐陵がある。おそらく伊勢神宮遥拝目印石なのだろう。季節の移り変わりを感じさせるウメ、シダレザクラ、ハナカイドウ、ツツジ、シャクナゲ、サツキ、アジサイ、若葉と紅葉のカエデ、年中美しいマツ、それらが皇族の雅やかさを感じさせる。庭を取り囲むスギの大木群が天に向かって真っすぐに伸びている。真っ直ぐなスギが庭に神々が降臨しているように感じさせる。単純な庭故に東山の借景が清々しく見える。このように庭は陵墓群と一体の借景庭園で、庭を通して陵墓群の神々と語り合えるようになっている。おもしろいと思ったのが書院近くのマツの幹を雷のように見せ、易経の雷の卦を読み取らせるようにしていること。例えば天の下に行く雷は「25天雷无妄」天も雷も人力の遠く及ばないもの。とかく人は天命に逆らい災いを受けてしまう。天行に従順に従えば災いはない。春に雷が轟き地を震い立たせると「16雷地預」春を迎え雷が鳴るのは自然の道理。吃驚するような事件は突然起きる訳ではない。事件が起きることは予め判っていたこと。東山を借景とする庭なので「62雷山小過」信ある行動は少し過ぎるくらいが良い。皇族の庭にふさわしい演出となっている。霊明殿前(西側)の白砂庭中央に徳川慶喜寄進の石灯籠が置かれている。石灯籠を中心にして白砂上に菊紋が画かれている。源氏(徳川家)は皇族と一体であろうとしたことが読み取れた。