清朝へのメッセージを含む庭
醍醐寺金堂、五重塔、観音堂、清瀧宮本殿、清瀧宮拝殿及び三宝院門跡表書院、報恩院は東に浜松城、西に孔子廟(中国曲阜)、南に伯母子岳山頂、北に延暦寺横川中堂を遥拝する向きに建てられている。伯母子岳山頂と延暦寺横川中堂を線で結ぶと金堂の西30m付近を通過する。伯母子岳山頂と延暦寺根本中堂を線で結ぶと三宝院境内西側を通る。以前記事に上げた豊臣秀吉の正妻、高台院の菩提寺、高台寺は南に伯母子岳を、北に知恩院を、東に(滋賀県)鶏冠山を、西に(岡山県)猿隠山を遥拝していた。両寺には伯母子岳遥拝という共通点がある。醍醐寺は豊臣秀吉の醍醐の花見で中興されたので、上述だけでも豊臣秀吉に関わる方角に建屋が向けられたことが読める。醍醐寺から延暦寺横川中堂の方角手前には延暦寺根本中堂、大書院、法然堂、聖尊院堂 亀堂などがあるので伯母子岳山頂から醍醐寺の方角を遥拝すること、そして醍醐寺から建屋に沿って北を遥拝することは比叡山中枢を拝むことに通じている。つまりは醍醐寺全体で比叡山中枢を遥拝する形となっている。金堂前参道を金堂に向かって進み、礼拝することは伯母子岳山頂を背にし、延暦寺横川中堂に向かい、礼拝することに通じている。孔子廟(中国曲阜)と浜松城天守閣を線で結ぶと金剛王院(醍醐寺別格本山)を通過する。醍醐寺三宝院玄関から受付入口を通り抜け南南西に向け真っ直ぐ伸びる道の約900m先に金剛王院があり、そのすぐ南に醍醐寺境内栢杜遺跡がある。朱雀天皇醍醐陵と熊野本宮大斎原を線で結ぶと金堂を通過する。石清水八幡宮と多賀大社を線で結ぶと金堂を通過する。二つの遥拝線がクロスする地点を選んで金堂を建立したように見える。醍醐天皇後山科陵と熊野本宮大斎原を線で結ぶと三宝院表書院と庭園を通過した。毘沙門堂高台弁財天と熊野那智大社を線で結ぶと五重塔を通過した(この遥拝線は朱雀天皇醍醐陵をかすめ、興福寺境内奈良国立博物館をかすめ、柳本公園黒塚古墳(織田長益の五男が藩祖となった柳本藩陣屋跡)を通過する)。大覚寺宸殿と伊勢神宮内宮中心を線で結ぶと東福寺仏殿、そして三宝院大玄関、三宝院庭園、仁王門を通過した。三宝院庭園は神が遊ぶ池にふさわしい遥拝線が通過している。上述したように醍醐寺主要建屋は(中国曲阜)孔子廟を遥拝しているが、遥拝線を北に約2度動かすだけで泰山岱廟に到る。総門と仁王門はその中国泰山麓の岱廟遥拝方向に向け建てられている。総門から仁王門までの参道に沿って線を伸ばすと概ね岱廟に到達する。泰山山頂は始皇帝以来、歴代皇帝が自らの就任を天に報告した地で、岱廟はその際に皇帝が必ず立ち寄った聖地である。二つの門とその参道は清朝皇帝が新就任するのを見つめる構成になっている。醍醐寺仁王門と岱廟を結んだ1700㎞線は途中、出雲大社南3.8㎞地点を通過するので、二つの門は出雲大社遥拝しているようにも読めるが、仁王門を豊臣秀頼が再建したこと、醍醐寺境内にある清瀧宮の名から清朝を連想すること、中国の孔子廟・泰山岱廟を遥拝する線上に他聖地が無いことから、醍醐寺は清朝皇帝の動静を見つめる役割を持っていたように見える。少なくとも清朝を意識した寺院だったはずだ。歴史を読み解けば豊臣秀吉が行った文禄の役(1592年~1593年)は、明朝に大軍を朝鮮半島に派遣させ日本軍と戦わせるものだった。その間、ヌルハチは女真族統一を行った。慶長の役(1597年~1598年)は日本軍が明軍を叩きのめすものだった。文禄・慶長の役において明軍は計10万の将兵を喪失し、明朝は財政破綻に至った。日本軍が朝鮮半島から完全撤退したのは1606年、平和交渉は長引き、明軍は朝鮮半島に張り付いた。その間もヌルハチの勢力拡大が続き、1616年、豊臣家滅亡の翌年に大清帝国が建国された。文禄・慶長の役はヌルハチに清朝を建国させる応援戦だったことが読み解ける。庭の中にそれを示すものを探したところ、池の東島に架かる長い土橋に沿って線を伸ばすとヌルハチ(1559年~1626年)の陵墓(瀋陽東陵公園;福陵)に到達した。三宝院表書院と福陵を線で結ぶと月輪陵、泉涌寺御座所、舎利殿、東本願寺境内を通過するので、池の対岸から表書院に向かって土橋を渡ることは月輪陵などを遥拝しながら福陵に向かうことに通じる。1300㎞先に福陵があるので、ヌルハチの後継者(第2代皇帝)ホンタジイの北墓(昭陵)、瀋陽故宮も遥拝していることになる。土橋の方向を見ていると豊臣秀吉とヌルハチの間に何らかの約束があったのではと深読みしたくなる。清朝に名君が多かったことに比して明朝に名君は少なく、名君による統治期間も短く、暗君による恐怖政治が続いていた。明の官吏は薄給で汚職による腐敗が進んでいた。腐敗が発覚すれば簡単に処刑された。日本において応仁の乱、そして戦国時代を引き起こした足利幕府はすでに淘汰されていた。時代の流れは足利幕府と友好貿易関係にあった腐敗した明朝を打倒する方向だったはずで、豊臣秀吉が多くの犠牲者と大出費してまで文禄・慶長の役を発動したのは時代の流れに乗せられたからだろう。明朝滅亡から明治初期まで徳川幕府、李氏朝鮮、清朝の間で軍事衝突が無かったことからしても明朝打倒は東アジアの平和をもたらすため必要だった。時代の大義だったと読める。東側の島に架かる土橋の先には朝鮮半島、そして福陵があるので、土橋は清朝と李氏朝鮮への友好表現のために架けたと読んだ。庭の他の橋をチェックしたところ東島に架かるもう一つの短い石橋は籠神社に向かっていた。二つの西島(亀島、鶴島)に架かる3つの橋の内、対岸と亀島に架かる土橋は籠神社に、こちらの岸と亀島に架かる石橋は延暦寺横川中堂に、鶴島と右岸に架かる木橋は(韓国)洞華寺に向かっていた。豊臣秀吉が基本設計を行った三宝院庭園は1598年(慶長3年)花見終了後の4月から築庭が始まった。その年の8月に豊臣秀吉は亡くなった。その後、義演の指導のもと豊臣秀吉の基本設計を発展させ築庭が続けられた。当時一流の庭師が参画した。1602年~1623年には(豊臣秀吉の正室、高台院住居)圓徳院の庭を作った賢庭が築庭に携わっているので、人物を模した石の置き方が圓徳院庭園に似ている。義演が亡くなった1624年(元和10年6月)までの27年間、築庭が続いた。高台院も同年10月に亡くなっている。それほど大きくない庭に当時一流の庭師が参画し、27年間も作り込んだので細部にわたって豪華だ。豪快な中に優雅に庭鑑賞者を包み込む風が流れている。更に義演の死後、西日を一番良く受ける庭東側に、秀吉好みの頭を下げ、背を曲げなくても入出できる貴人口がある茶室「枕流亭」を置き、大名庭園のように回遊できるよう造り変えされている。枯山水のような石組み技法で作られた東側の山手から水を庭園池に豪快に流し込む二本の瀧の内一本は三段瀧、豪快な水の音楽を奏で表書院から庭鑑賞する者を圧倒する。別の瀧水は静かに流れている。公家の庭を連想させる緩やかな形状の池周囲に豪華な石にて石組みがされているので、しなやかな豪華な剛健美がある。華麗で高価な五葉松を植樹した「亀島」「鶴島」は息を飲む美しさだ。石橋2本、木橋1本、苔を生長させた土橋1本が同時に見えゴージャスだ。東島につながる手前の半島にも石橋が架かり、高価なマツが池の水面を這うように植樹されていて、ゴージャスの上塗りがされている。池と表書院との間に白砂を敷き、賀茂の三石と呼ばれる石を配し賀茂川の流れを表現している。書院西南隅に突き出た泉殿からこの三石を含めた白砂に沿って並べられた多数の石々を見ると、各石表面のブルーがかった白色の模様が太陽光を受け輝いて見え、白砂に描かれた枯水の流れと同調し、枯水の流れをより早く感じるようになっている。超一流の庭師による水流表現だと感じる。縁側に勾欄をめぐらしてあり、庭を優雅に参観できるようにしてあるので、庭がより一層優雅で豪華に見える。表書院の下段の間は畳を上げると能舞台にもなる。西大門(仁王門)付近の樹木が大木となっているので五重塔は見えないが、これだけゴージャスな庭なので、以前は五重塔が見えていたはずだ。この庭の中心石は堂々たる四角い形をした藤戸石、阿弥陀三尊を表していると説明されているが、どう見ても日本だけでなく東南アジアを動かす人物表現に見える。藤戸石が置かれた位置は、築山の頂上ではなく、池の傍で一人ぼっちにされている。藤戸石は誰がモデルなのか。藤戸石を引き立てる周囲の石を寝かせたような石組み、藤戸石を見つめる石々は誰なのか想像が膨らむ。藤戸石の後ろの築山上に豊国大明神が祭られていること、大きくモダンな感じから藤戸石のモデルは豊臣秀吉でない。庭の豪快さからしてヌルハチもしくはヌルハチを動かした人物ではないかと推測した。豊国大明神の祠の前にいくつかの石が置かれているが、この部分の石々だけが庭園内で日陰の位置にある。なぜ他の庭石と協調させなかったのか気にかかる。絢爛な表書院、唐門と組み合わされ、東側の山を借景とするスケールの大きなどこまでも豪快で華麗な庭園だ。日本一豪快で豪華な庭園かも知れない。醍醐寺は古くから真言宗系の修験の中心で、室町時代頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになった。江戸時代、三宝院は真言宗系の修験道当山派を統括する本山となった。修験者・山伏は情報員でもあったことが容易に推測できるので、三宝院庭園の美しさは世界に向け発信されていたことだろう。庭園外側参道の両端にある総門、仁王門が清朝の新皇帝が泰山にて就任宣言する姿を見つめる構成となっているのが意味深い。庭と庭外側の参道には簡単に測れないメッセージが隠されている。遥拝で庭を美しくし、更に秘めたるメッセージを刷り込むことでレベルを格段にアップさせた庭だ。