(前期)柏原藩は信長の弟、信包から始まり52年続いたが(孫)3代藩主、信勝に男子なく1650年断絶、天領となっていた。1695年(元禄8年)宇陀松山藩5代藩主、織田信休が当地に移封され、(後期)柏原初代藩主となる。長く天領が続いていたので新たに陣屋を建てる必要があったが、移封から19年後に幕府の許可が下り建てられた。現在、陣屋跡には長屋門と表御殿のみ残されている。長屋門は1714年(正徳4年)信休が建てたもの。表御殿は1820年(文政3年)4代藩主、信憑が再建したもの、それぞれの建屋の遥拝先をグーグル地図で調べた。長屋門は織田信雄と縁深い長島城を遥拝していた。信雄が元服後それほど間が無く参戦した第3次長島侵攻で信長は3万人の一向一揆衆を虐殺した。本能寺の変の後、1583年(天正11年)から1586年(天正13年)まで信雄は長島城を居城とした(入城当初は100万石)。1584年(天正12年)秀吉に寝返ったという秀吉の流言に乗り3家臣(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)を長島城に呼び殺害した。長屋門を潜ることは長島城へ供養の礼をすることに通じている。表御殿は安土城内の織田信雄から信武まで4代の墓所を遥拝している。もともとこの墓所は1628年(寛永5年)信雄の菩提寺とするため大和宇陀に創設された徳源寺(臨済宗大徳寺末寺)にあったもの。宇陀松山藩が柏原に転封された際、安土城に改葬された。しかしネット検索すると(大和宇陀)徳源寺に墓所と墓石が残っている。いずれにしろ御殿を再建した信憑は同じ血流の旗本家から養子に入った人なので、血流を大切に考え、信雄の墓がある安土城を御殿の遥拝先と定め、建屋を安土城に向けたのだろう。表御殿に入ることは安土城の信雄墓所に礼をすることに通じている。かつて、宇陀と同じ名前の徳源寺(臨済宗)が当地にあったが明治維新後に廃寺となった。その境内にあった織田家廟所のみが残された。そこには柏原藩初代藩主、信林から第9代藩主、信民までのすべての藩主墓があった。柳本藩、芝村藩の織田家墓所と異なり、歴代藩主の墓が一同に会している。家系を大切にする家風だと思った。墓石は大き過ぎず、小さくもなく陣屋クラスの大名にふさわしいものとなっていた。目立つことをしない、血流をつなぐことを第一に考えていたと感じた。7代、6代、8代の墓石背後の築地塀に沿って線を伸ばすと多気北畠氏城館跡の北畠神社に至った。ここでも北畠氏を敬い弔っていた。宇陀松山藩の松山西口関門と春日神社にも三瀬の変を弔う遥拝線があった。よほど信雄は三瀬の変で心に傷を負ったのだと思った。上記から柏原藩は信長・信雄の血流を守ること、信雄が実行した殺害の犠牲者を弔い信雄の霊を慰めることを心掛けていたことを知った。