国家安泰祈願の晩翠園
毘沙門堂は天海大僧正(1536年~1643年)が復興を行ったので、以前記事にした滋賀院同様に幾多の遥拝線を持っているはずだと読み、グーグル地図上に多数の線を引いてみた。高台院が祈りを捧げた弁才天を祀る毘沙門堂高台弁財天と出雲大社を線で結ぶとその線は知恩院、二条城南の神泉苑を通過する。高台弁財天と日光東照宮を線で結ぶとその線は多賀大社の近くを通り安土城跡北側(森蘭丸邸跡)を通過する。高台弁財天と多賀大社を線で結ぶとその線は安土城跡南側(羽柴秀吉邸跡)を通過する。高台弁財天と熊野那智大社を線で結ぶと朱雀天皇醍醐陵をかすめ、醍醐寺五重塔を通り、興福寺境内奈良国立博物館をかすめ、柳本公園黒塚古墳(織田長益の五男、尚長が藩祖となった柳本藩陣屋跡)、吉野山七曲りを通過する。高台弁財天と(河内源氏)源頼朝の菩提寺、高野山金剛三昧院本堂を線で結ぶと勧修寺宸殿、氷室池の端、明智藪一帯、大津皇子二上山墓を通過する。高台弁財天と(淡路島)伊弉諾神宮を線で結ぶと東福寺本堂を通過する。高台弁財天と(香川)金毘羅宮を線で結ぶと天智天皇山科陵内、中山寺五重塔を通過する。高台弁財天と(会津)鶴ヶ城天守閣を線で結ぶと彦根城天守閣の北付近を通過する。
高台弁財天と和歌山城天守閣を線で結ぶと住吉大社境内を通過する。江戸城天守閣と東本願寺鐘楼を線で結ぶと毘沙門堂霊殿、清水寺、大谷本廟本堂、渉成園(枳殻邸)の南端側を通過する。名古屋城天守閣と東本願寺御影堂を線で結ぶと毘沙門堂宸殿、清水寺、渉成園(枳殻邸)を通過する。知恩院権現堂と浜松城天守閣を線で結ぶと毘沙門堂宸殿・高台弁財天を通過する。徳川家康生誕地、岡崎城と八坂神社を線で結ぶと毘沙門堂境内を通過する。(滋賀)慈眼堂と根来寺大塔を結ぶと毘沙門堂観音堂、(堺市)ニサンザイ古墳を通過する。本殿には徳川家康の像が祀られていたため、江戸時代、東海道の大津宿と三条大橋との間にある交通の便の良い当寺は大名行列が立ち寄るべき場所であり、幕府の大名情報収集機関であった。本尊の毘沙門天は武神なので、大名が信仰すべき佛であり、上述の遥拝線を持つので徳川幕府の目が届いていることを意識させられる大名管理にふさわしい寺だったことが感じられる。さて庭について探る為、建屋の方向を調べた。全ての建屋は西3.41㎞先の知恩院三門方向に建っている。高台弁財天とその参道、毘沙門堂本堂とその参道、薬医門とその階段参道は共に巣山古墳に向いているので、高台弁財天、毘沙門堂本堂は巣山古墳を遥拝している。毘沙門堂宸殿、庫裏、勅使門とその階段参道は神功皇后陵、そしてその先の宝来山古墳、郡山城に向いているので、毘沙門堂宸殿、庫裏、勅使門は神功皇后陵及び、宝来山古墳、郡山城を遥拝している。この遥拝先から宸殿裏庭「晩翠園」を推測すると神功皇后陵が発するパワーを裏山が受け止め庭に降り注いでいる庭となる。心字池は神功皇后の心を表現したものだろう。庭は河内源氏の母親である神功皇后の胎内にいることを感じさせるものであるはずだ。池対岸の観音堂はそれを暗示している。これらのことから庭を介しての観音堂への祈りは、神功皇后の国家安泰政策に敬意を表するものであるのが相応しいと思う。以前記事にした神功皇后の胎内にいるような落ち着いた気持ちにさせられる南禅寺金地院の小堀遠州作、方丈前白砂庭と同じく神功皇后に祈りを捧げる庭だ。天海とその弟子の公海(1608年~1695年)によって当寺は現在地に移転・復興され、1665年(寛文5年)に完成したので、庭は同時期の滋賀院、曼殊院を手掛けた小堀遠州(1579年~1647年)の弟子達の作品かも知れない。小堀遠州の庭には易経思想が持込まれていないように見え、神の降臨情景を綺麗に画くことを主旨としているように思う。その点が南禅寺金地院、滋賀院、曼殊院の庭に似ている。晩翠(ばんすい)の意味は「冬枯れの季節に、ある種の草木がなお緑であること」なので、生命の活動が止まったような時も、緑の葉を持つ植物は生命活動を続けている意味にとれる。易経「53風山漸」山の上に風が吹くように、山また山の風景は物事が止まっているように見えるが、物事に終わりはない。風が吹き樹木が成長するように徐々に進むのが自然の道理。人は結婚にならって正しく、落ち着いて、ゆっくりと前進して行くべきだ。という意味にも取れる庭なので、樹木構成の変化で季節・天候の変化を易経に当てはめ、思索する庭に変貌したのかも知れない。と言うのも、正面の山の木々が普通に山で育っているカシ系樹木で、これだけの名庭園にふさわしい樹木に思えないこと。創建当初の山の木はマツが中心で、もっとスマートな庭だったのではないかと想像した。「伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして毘沙門堂だけに伝わる秘法です。」「境内の東に位置する弁天堂には、太閤秀吉公の大政所(高台院)が大阪城内で念じていた弁才天が安置されています。」「境内の中央に位置する霊殿は、江戸時代に御所の御霊屋が移築されたもので、歴代の天皇と徳川将軍の位牌が安置されています。」との説明があるので、河内源氏の聖地に気配りする地にある庭「晩翠園」は江戸幕府の国家安泰祈願庭だったと結論付けしたい。庭に面して鳥が合わない間(取り合わない「あわずの間」)があるのも、目的意識の強い庭である証拠ではないのだろうか。